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「ひきこもれ」 吉本隆明:著

◆ はじめに ◆
 和歌山の片田舎に「共生舎」という寄り合いの場をつくり、過疎化の問題と、ひきこもりの若者たちの問題をうまく結びつけて成功に導いた立役者のYさんという方がいたのだけど、彼はわたしの義父にあたります。
 この場所が世間に知られはじめたのは2016年ごろ。ザ・ドキュメント 山奥ニートというドキュメンタリー番組で紹介されたのがきっかけでした。
 義父はもうすでにお亡くなりになってますけど、この場所で暮らし始めた人たち同様、わたしも彼にはすごくお世話になりました。
 この記事を書いてた当時はわたしも いわゆるニート同然の暮らしをしていて、共生舎の立ち上げ以前、意気消沈しているわたしを現地に連れて行って下さり「よければ暮らしてみないか?」と持ちかけられたりしてました。
 とても魅力を感じたものの、妻(Yさんの娘です)を説得しきれず、結局その話は水に流れてしまったのですが、もしあの時 妻を説得し、移住していたなら、どんな未来になっていたろうか と想像したりします。
 そんなことを懐かしみながらこの記事を再読し、もう一度 掲載してみようと思いました。

2009.09.06 up

 ホーキング青山の差別をしよう!同様、刺激的なタイトルである。世間一般に流布する常識的価値観と反対の言葉でアジっている。

 吉本隆明氏の名前は吉本ばななの父親であることぐらいしか記憶になかったのだが、「ひきこもり」問題の題材も気になったし、また敬愛している糸井重里氏が彼の講話をi-podに入れて、合間の時間に何度も愛聴しているときいて興味を抱き読んでみたしだい。

 これが実にオモシロい!

 いや、オモシロいといっては誤解を生じるだろうので言い直すと とても心に染入る含蓄ある内容であった。

 ただ彼の意見に多少物申したい部分もあり、ご本人に直接云える機会はそうそう巡って来そうにない(※2012年3月16日没)ので、本の感想と共にメモ代わりついでに吐き出しておく。

 まず、吉本氏の魅力から説明に入ってみよう。

 彼のコトバの魅力はその明快さ明晰さにあるだろう。普通一般的な知識人らは、初心者向けに敢えてコトバを噛み砕こうとせず、自惚れつつ己の語彙力をひけらかしながら滔々と難解語を喋る。
 ところが彼のは全くちがって、実にわかりやすいのだ。またそれがバカ丸出しだったら目も当てられないのだが、「知の巨人」と称されるだけあって彼のは上品だし、極上だし、これまで聞いたことのない独特の言い回しで一般語を換えたりしていてとても楽しい。

 たとえば「自己慰安」、普通は“自己満足”と否定的な意味合いで使ってしまいがちなのだけど彼はこれを巧く中和的な言い方にして否定も肯定もしない。

 「賃労働」という言い方も、何か新鮮な響きがあった。“アルバイト”のことなのだが、これもまた使い古されて偏見に満ちたコトバをうまく当たり障りなく伝えている。

 そんな思慮深い知識人の彼が今回この本で語りたかったこと‥

「ひきこもれ」

 まさにタイトルどおりである。彼は自己の経験を踏まえながら ひきこもることが何ら悪い行為でもないということ、 ひきこもる人間を無理やり引き出すことが、社会を生き苦しいものにしている元凶であること などが記されている。

 ただし前述したように、彼がこの本を記した年代とは若干事の深刻さが変わってきてるので、頷けない部分があるものたしか。

 無論それは「ネット」の介在である。

 彼はひきこもり体質の人間ならば、いっそのことひきこもってしまうほうが、当人を心配するならばなおのこと有意義である、みたいな主張を繰り返してるが、たしかにそれは本当にそうでひきこもりで学ぶことは、ひきこもった経験がない人以上に多く、人間性を豊かに磨くものであるけど、その先には、間違った方向へ“開けた世界”が大口開けて待っているのだ。

ネトゲ廃人、ギャルゲー廃人、

吉本氏は自身でも「“食べさせてもらえる”環境がひきこもりを増幅させている」、そんな現代の、ある程度経済的には満たされた「ゆるい」社会状況が問題であるとは指摘していて そこは納得なのだけど、その後に続く、異性への関心、恋愛が「ひきこもり」から脱出するひとつの引き金になるのではないかとの意見には、疑問を抱かずにはいられなかった。

 今、若者のあいだで二次元的創作物を恋愛対象とするバーチャル愛が加速化してるし、となると恋愛がひきこもりを辞めるきっかけになるどころか、ますますのめり込む事態となろう。

 裾野をひろげていえば、結婚率の低下、少子化の問題もこうした、経済的に満たされてる次の段階の、バーチャルネットの侵蝕が原因ともいえる。

 ただ、勇気はもらったのだ。 この本で期待してた以上 多くの勇気をもらった。 これは間違いない。

「ひきこもり」=悪

と決め付け、偽善を振りかざして「引き出そう」とする社会運動はやっぱりいらない。「ひきこもり」によって損得を決めるのは自分自身だ。要はひきこもる側本人の覚悟のしかた、けじめのつけ方が問題なのである。

 眼前に、食えない以上たらふく用意された“甘い汁”の壺。嘗めようと思えばいくらだって嘗められる状況下において、それを律するは己の覚悟でしかない。

 嘗められるけど、【嘗めたらアカンぜよ】 である。

「ひきこもれ」と吉本氏はいう。自分も同感だし、今たしかにそうした状況下に身を窶してはいるが、ただ半身ひきこもりながらも、自分がリアルへ出よう出ようとするのは、そうせずにはいられなくなるのは やはり嘗めるばかりで嘗められたくないからである。

「ひきこもる」ことが己にとって都合の良い逃げ、甘えと解ってる以上、
それだけでは生きていられないのである。

よくよく 考えてみるがいい

リアルとバーチャル、
生身の生存を確認できる先は、どっちか ?

リアルだけでは生きるに足るが、
バーチャルだけで我々は存在し得ない ちがうか ?


余談1)

 そういえばKクンがゲームをする理由は、「自分がそれだけ時間を無駄にしたことを猛省し、リアルで発奮するためにやる」と言っていた。「ひきこもり」全体の捉え方においても同じようなものかもしれないね。無駄を無駄と自覚できるか、そうでないかのちがい。結局 親や先生、他人からどうこう言われても自分に気付きがなければ 如何とも心に響かない。人間て愚かだよなぁ ホント。。

余談2)

あとこの本では「いじめ問題」「老後問題」などについても良質な私見が綴られております。それも機会があったら感想を述べてみたい。

 とにかく「ひきこもり」に多少なりとも関わりのある人は読んでみるといい。僕のように少しでも勇気がもらえるはずです。

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