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友達の存在

友達とは?

自分にとっての友達は何か?
友達は家族でもないパートナーでもない不思議な関係であると私は思っている。同性の友達は、私からしたらパートナーになることはない。言い換えると遠すぎない存在かもしれないが、いちばん近くにいる存在になることもないということである。だが、人生の相談相手になってもらったり、逆に自分が相談を受けたり、楽しいことを共有したりと人生においてなくてはならない存在である。そんな不思議な存在である友達は自分にとってどのように影響されているのかを考えていく。

自分を奮い立たせてくれる友達

私は友達の頑張ってる姿や結果が出たところを見て自分も頑張らなくてはいけないと思うようになる。友達が過程の報告なしに結果が出て初めて報告してきたときがあった。もちろん普段の会話として少し前兆のようなものは感じていることも多いが、大々的に結果として見せつけられると自分も結果として見せたいと思うようになる。友達に認めてもらいたいというよりは、結果が出て初めて報告されたときの悔しさから来るものの方が強い。友達に対して悔しさを感じるということは自分とその友達の実力が本来同じくらいと感じているからであると思う。「類は友を呼ぶ」という言葉があるくらい、自分と友達の実力の差は別分野だとしても同じくらいの人が多いと思う。自分より結果を出している友達を見て、同じ分野でなくてもはっきりと結果を出したいと悔しさからより行動するようになるのである。ただ行動を始めたから終わりなのではなく結果を出して初めて報告できるようなものであるという認識になるのである。そのように自分自身の行動の「結果」にこだわる思考にさせてくれ、奮い立たせてくれる友達は私の成長につながる大事な存在なのである。

認めてくれる友達

自分が「こういうところを直したい」と友達に伝えたとき「直さなくていいよ、それがあなたらしさだから」と認めてくれる友達がいる。また、私が「プログラミングが苦手でやりたくない」と話すと「そんなに苦手とか言う必要はない。人よりプログラミングの言語が理解できている時点で苦手ではない。ただ苦手だと思い込んでいるだけ」と言われたこともある。私は自分が嫌いなわけではないが、ほかの人を見て自分が直さなくてはいけない部分を見つけることがある。その話をしても結局、その性格が自分らしさであったり自分の他者から見る良さであったりといわれ、「自分の思うダメなところを直したい」という話題から「私らしさ」という話題にいつの間にか変化しているのである。そうやって認めてくれる友達がいるからもともと自信があるほうである私の自信がさらにつくのである。自分がダメだと思っている部分が他者から見たときの良さなのだと気づけることができるため、自分も気づいていない自分の新たな発見にもなる。自分が気分が乗らなくて少し誘いに対して雑な返事をしてしまったときも(完全に自分が悪いのだが)手を放さず変わらず接してくれる友達もいる。そういう友達は大切な日々感謝したい相手である。

ファン同士の友達

前の認めてもらうということとも似たような話かもしれないが、お互いがお互いのファンである友達も大切であると思う。具体的には友達に「あなたはこっちの髪色が似合う、個人的にこちらの方が好き」であったり「あなたのこういう部分が私は好き」であったりということを言い合える友達ということである。相手が自分のツボをついてくるかということが重要になってくると思う。お互いに認め合うことでよりお互いの肯定感を高めることもできるし、一緒にいて楽しいと思えるし、いいこと尽くしなのである。

成功を素直に喜んでくれる友達

よく「”悲しいことを一緒に悲しんでくれる”友達は手放してはいけない」という話がある。しかし、私はこの話は逆であると思う。「”成功を素直に喜んでくれる友達”は手放してはいけない」であると思う。子供のころは悲しいことを一緒に悲しんでくれるということで自分の傷が癒えるため大切な存在だったのかもしれない。しかし、大人になると素直に他人の成功に対して喜ぶことができなくなるのである。高校生の時には「ええ!すごいじゃん!」と言ってくれていたのに対し、今は「よかったね。」という反応に変わっていることは多い。そんな中でも他者の成功に喜んでくれる友達は手放してはいけないし、自分も相手の成功に素直に喜びたいなと思える存在になる。友達の成功に対して「悔しがる」のと「喜べない」というのは違うことだと思う。悔しがるのは相手の成功を認めたうえで、喜んだうえで、自分もうかうかしていられないと思う気持ちになる。悲しいことを一緒に悲しむのは正直あまり仲良くない人に対してもすることができると思う。悲しんでいる人は弱く見えるため本能的に近づきやすいと思う。だから一緒に悲しむことは簡単である。成功を一緒に喜ぶのは自分に余裕がなかったり相手のことを認めたくなかったりすればできないことであると思う。相手のことを認めたうえで成功を一緒に喜んでくれる友達こそが大切にすべき友達であると思う。

過去を振り返られる友達

大人になってから知り合う人も多い中で小中学生のころや幼稚園のころに出会った相手はお互いの過去を知っている数少ない友達である。そんな友達と久しぶりに会って色々話していくと思い出話に花が咲く。お互いの過去を知っているうえで今現在も話しているとお互いの変化を感じることができる。変わった部分も変わってない部分も含めて今でも一緒にご飯に行けるという関係であることが簡単なことではなく、大事にすべき存在であると思う。過去に縋りつくわけではなく過去を大切に抱えたまま、成長した今の自分たちで話をすることができるのである。話していく中で自分が覚えていなくて相手が覚えている話も多い。その話を聞くと自分の行動であったはずなのに他人の話のように聞いていることがある。相手が過去の自分を知っていることにより自分が忘れてしまった自分をよみがえらせることができるのである。

道筋が見える友達

今までのすべての話と被る部分があるかもしれないが、自分の進むべき道が友達と話すことによって見出されることが多い。自分がダメである部分ははっきりと指摘してくれたり、自分の気づいていないいいところを褒めてくれたりなど友達という距離でいてくれる存在だからこそ気づけることが多い。自分の人生や行動の道筋を導いてくれる存在なのである。もちろん友達に認められたからやるのではなく、友達が与えてくれた大きなヒントをもとに自分でなにかをしていくことができるのである。もし私に大きなヒントを与えてくれる友達がいなかったら今の自分はいないと思う。高校生はじめのころ、新しい環境で疲れていた時に友達に言われたことが今でも印象に残っている。「私が無理していい人になれるように取り繕っていたら相手もその取り繕った自分を気に入って近づいてくる。そうするとどんどん自分が苦しくなっていくから、常に自分は取り繕わない方がよい」と言ってくれたのである。その助言のおかげで、自分が無理に取り繕って相手に好かれるより素の自分で好きになってくれた人を大切にするという考え方が確立したのである。また、ほかの友達に言われたことで印象に残っていることもある。高校生のころに自分が目立つ存在であるかどうかという話になったときに言われたことである。「本当に目立つ人は目立とうと思って目立っているのではない。自分にはこの役割があるといってやり続けてその組織の役に立っていたら気が付いたら目立つ人になっている。」ということである。目立つことが目標になるのではなく、自分が何を成し遂げたいのか、どの役割に居たいのかを考えたうえで行動した結果、目立つという周りからの視線の向かれ方があるのだと学んだのである。

人生を豊かにする存在

私にとっての友達について考えてみたが、総じて「友達とは人生を豊かにする存在」である。パートナーでもない、家族でもないためいなくても生きていけるし、いてもいなくても家系や戸籍に全く関係ない。パートナーは結婚という契約を結ぶことができるが友達は特にそのようなゴールはない。だが、友達がいることで自分の人生が豊かになるということは間違いない。
自分の今まで関わってくれた友達に感謝をし、今までやこれからの友達を大切にしていきたいと思う。


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