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パリ ゲイ術体験記 vol.22 「ケチの女王様」

フランスに来て初めてできたボーイフレンドが私にとってのケチの王様だった事を白状したが、同じように女性版が存在していて、その人はフランスに来て初めて教えを受けたピアノの師匠であった。
単なる自分のピアノの先生と呼ぶ訳にはいかない世界的に名の知れたピアニストであるから、ケチ女王様としてここに登場して頂いてよいものやら多少迷ったのではあるが…
私が小学生の頃に東京で彼女の大リサイタルを偶然聴いており、その華麗なピアニストから将来自分が教えを乞うなどとは、当時は夢にも想像しえなかった音楽家である。

本当は他の先生に就く予定でパリに来たのだが、その先生は私がパリに来る数ヶ月前に音楽院の教授を高齢のために退任されてしまっていた。
途方に暮れた私は日本での師匠に連絡を入れてみたら、音楽院ではあの高名なF女史が教えているはずだから、彼女のクラスに入れるようダメ元で挑戦するようにと勧められた。

子供の頃に聴いた泣く子も黙るような雰囲気の悪魔的ピアニストの記憶も手伝って、恐る恐る彼女とのランデブーをとりつけて、全身硬直しながらお宅に伺って入門の審査を受けた。
そして1曲弾き終えて彼女の方を見たら、なにやら苦々しそうな表情をしている。
そして開口一番「まず貴方は大変不幸なピアニストの玉子さんね。幼い頃から今までずっとピアノを励んできたというのに、貴方の先生だった人は何のテクニックも授けてくれなかったのね。なんて悲しい現実なのかしら、やれやれ..    とりあえず今の貴方に私は何の興味もないけれど、これだけチャンスがなかった青年を私が拾って救うしか他に方法が無いでしょ?」と言って、しぶしぶ弟子入りを許してもらう事となった。
井戸の底に舞い落ちたボロ雑巾が、水汲みで桶を引き上げてる人の綱に偶然引っ掛かって地上に上がる事ができたような絵面が思い浮かんだ。

そののち、気がついたらF先生の元で10年以上も教えを受けていた。
先生はコンサート•ピアニストとしての在り方や実際に大きなコンサートで演奏する場合の興味深いスキルを示して下さり、現役の演奏者であり続ける事の厳しさという点からも学ぶ事が多かった。
だけれど、彼女自身は若い頃からスター•ピアニストになるだけあって、元々が軽々弾ける人である。
人の何倍も時間をかけてテクニックを手に入れなくてはならない私のような不器用人間の困難さは正直おわかりではなかった。いや、わかっていてもそんな事には興味がなく、まずそこに時間をかけたくはないのである。
こういう師匠に就く弟子は、余裕のある技術を既に備えており、レッスンでは先生がサッと振ってみせる一筆の色使いの感覚を瞬時に習得できる者が理想的な生徒であるのだと感じる。

この大先生、ピアノを弾くスタミナも桁外れであったが、ケチ力でも抜群のパワーを備えておられた。
我が母は、こんな平凡な生徒に何年も教えてくれている先生に感謝を申し上げようと、お礼の品々をたんと抱えてパリにやって来た。
プレゼント大好きな先生は超ご機嫌で、母は母で感謝感激と涙ぐんでいたりする。
お宅からの帰り際に「ママさんちょっと待って!私からも素敵なプレゼントを差し上げたいの!」と言って、自分の部屋から何やら重大そうに背中に隠しながら物を持って出てきた。
「Voilà~」(ヴォァラー=ほらーっ)と言って母の手を取って渡してくれた物はシャネルのオーデコロン。
なのだが、新品ではなくて瓶底に1cmほどしか液体が残ってない代物。要するに殆んどは既に使用済みである…
こういう瞬間って、普通の感覚の人間は狐につままれたような状態で思考停止になり、これは何か目の錯覚に違いないとまず自分を鎮めるのが一般的である。

母は「メルシーメルシーマダム!」と一応喜んでみせたものの、先生の家を離れた途端に「これって..
何かの間違いじゃあないの?」と言った。まあ、そう反応するのは当然である。
F先生のケチパワー、噂にはよく聞いて知ってはいたが、直撃されるとなかなかのものである。

後年、F先生たっての希望で私の生まれ故郷で彼女の大リサイタルを催した。
とは言っても、音楽事務所にワンステージ400万円も払わなくてはならない企画は私個人では到底無理な話であるから、2年越しで自治体に頼みこんでそこでの主催のコンサートという形で実現したのである。

1000人の聴衆を集めただけでも精魂尽き果てたのに、コンサートの成功でご機嫌よろしくなった先生は2日かけてマスタークラスまでやると仰る。
1時間のワンレッスンが5万円というレッスン料であったが、さすが世界的ピアニスト、他県からも生徒がやってきて結局12名の個人レッスンをおやりになった。
通訳は否応なしに自動的に私の役目となる。
このレッスンだけでも5万円×12名のアルバイト的な臨時高収入であるのに、私へのお駄賃は昼食にたった1回出してくれたコンビニの350円ののり弁だけだった …
そして、以前にゴミ箱行きに近いシャネルのコロンをもらったモヤモヤ感覚などとっくに忘れ去っている母は、大先生への感謝を示すとか言って、1泊10万円もする豪華温泉旅館を懲りずにも自腹で出してお泊まり頂いていた。

今はもうF先生は他界されているので、本来ならば亡くなった人の陰口や悪口は言うものではないと戒められそうだけど、逆に私は現世でたんまりとまみれていた煩悩などをあの世でゆっくりと自覚反省をして、来世というものがあるならばその為の教訓とかカルマ落としにした方がよいと常々考えているのである。

いずれまた、周りに数知れずいる皇太子•伯爵級のケチ面々もご紹介いたしたいと思っている。

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