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『聖なるズー』ネタバレ感想

この本(濱野ちひろ『聖なるズー』、集英社、2021年)は動物性愛者についての本です。しかしそんな難しい話では無く、作者の濱野ちひろさんが実際にドイツへ行き、ズーと共に過ごす中で感じたことを書いた本です。

僕がこの本を買ったきっかけはYouTubeで紹介されていたのを見たからです。そこで「動物性愛者」というテーマに興味を持ちました。
性に興味あるな、って話は他の記事で書いたのですが、その理由はすごく個人的なもので、そこから派生していって「性欲」なり「性別」という大きな概念にも興味を抱きました。
なので「動物性愛者」もあくまでトピックの一つとしか思っていませんでした。しかしこの本を読了したのち、大切なことに気付きます。それは以下の感想の後半で。これから備忘録のための感想をただ書いていきます。ネタバレあります。


眼差しの違い

動物性愛者は自分の愛する特定の動物の個体を「パートナー」と呼び、人によっては「妻」や「夫」と表現する。彼らにとってその動物は決して「ペット」ではない。

38p

動物のことをペットではなく、パートナー、我々と対等な存在だと考えています。しかし多くの人は動物を「愛玩動物」と捉えています。その眼差しは子供扱い、つまり知能が自身より劣ったものとしてのものです。

まずひとつは、彼女たちがペットを子ども視し、自分の子どもの代替としていること。もうひとつは、多くの女性たちがペットに対して同じふるまい方で接しているという事実だ。そしてその行為を全世界に自主的に発信しているのだから、彼女たちはちっともそれを恥ずかしがってはいないし、世界もそれを咎めない。犬と娘に揃いのおしゃれをさせて歩く家族が微笑ましく見られているのと同様だ。飼い主が犬を子ども視してかわいがることは、限度はあっても人々はそれほど拒絶感を示さない。(中略)私が見かけた愛犬家の家族は、女児とチワワを「いまのところ同等に子ども」とまなざしている。だが、女児が成長したときはどうだろう。おそらく、チワワは「子どものままの下のきょうだい」になるのではないだろうか。

103-104p

これは非常に実感できます。僕はペットを飼っていないですが、知り合いの子の母親が犬を飼った理由が「子供は大きくなったら家から出て行くけど、犬は出て行かないから」だそう。これはまさしく子供扱いしている証拠ですね。それが良い、悪い、という話では無いですが。下等に扱う者と対等に扱う者、どちらが忌み嫌われているのか、考えさせられます。

子どもとしての犬に性があると考えたがる人は、多くないだろう。人間に置き換えてみれば理解に難くない。もしも幼児が突然、性欲を剝き出しにしたら大人たちは狼狽するのではなかろうか。

104p

という表現も面白いです。確かにそうだ、と急に自分事になります。しかしズーは動物にも性欲はあると言います。同じ生き物への眼差しなのに、潜在的な意識の違いで見方が変わるのは面白いですね。

「僕は犬の去勢には反対なんだ。ひどいことだと思う。人間の都合で犬の性をコントロールするなんて。僕は僕のできることをバディにしてやりたいと思うから、彼のマスターベーションをサポートするんだ。だってバディは僕と対等な存在で、同じように性的欲求があるのがわかるから」

99p

という言葉も対等に見ているからこそのものだろうと思います。

言いやすさと言いにくさ

アクティブ・パートの男性たちはみな、パッシブ・パートの人々に比べて口が思い。その最大の理由は、動物性愛や獣姦を批判する人々が想定するのが、基本的にアクティブ・パートの人間の男性による、動物へのペニスの挿入だからだ。そのときのセックスの主体は人間の男性で、セックスとは「男性がペニスをヴァギナに挿入し、射精すること」と往々にして考えられている。ズー・ゲイのパッシング・パートや、ズー・レズビアンのセックスはまず、誰の念頭にもない。まっさきに悪者にされがちなセックスをしているのが、アクティブ・パートの男性というわけだ。

160-161p

しかし皮肉なことに、パッシブ・パートこそが、性も含めてパートナーの存在を丸ごと受け入れる素晴らしさを満面も笑みで語ることができるのも、性的ケアの側面を強調できるのも、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。彼らはペニスの暴力性から解放されることで、まるで自分自身もまったく暴力的でないかのように語ることができる。

164-165p

パッシブだからこそ、自分はいつでも被害者になることができるからこそ、多少なりとも大きな声で話すことができる、と筆者は言います。動物性愛という後ろめたい事柄に関与しているのは同じなのに。
それは動物性愛に限った話では無いと思います。それは同性愛だって同じで。自分は異性愛者であり、同性愛者の人と交際し、別れた過去があります。僕はその経験から色んなことを学び、作品にしたり、こうして記事にしたりしています。しかしもし仮に自分が同性愛者というマイノリティーだとしたらどうだろうか、と考えます。こんなに大っぴらにできるのだろうか、と。大っぴらにできるのも自分が「被害者」であると心のどこかで思っているからではないか、と考えてしまいます。

彼らはいつも「動物の誘い」をきっかけにセックスをし、欲望の主体は自分ではなく、動物だという立場を取っている。

164p

という言葉がまさに言い得て妙。
他人がものすごく重たく感じるものを、僕に少し分けようと思ってくれたものを、僕は「あくまで他人の物」とすぐにでも投げ捨てられるスタンスで受け取っていたのではなかろうか。僕はそれを話のタネ、エンタメのタネとして扱ってしまっていました。それにすごく悲しくなり、罪悪感を抱いてしまいました。
そう思ってからからこの本を他人事でなく自分事だと思えるようになりました。

カミングアウトは、人々の関係性に直接的に関与する。なかなか言えない個人的な性の秘密を分け与えるこの行為は、見方を変えれば最大のプレゼントを友人に贈ることでもある。そのプレゼントは受け取ってもらえるかどうかはわからない。受け取り手が拒否すればおしまいだ。しかし、ひとたびプレゼントが受け取られて「大丈夫だよ」と言われたとき、その言葉はさらに大きなプレゼントとなってカミングアウトした側に戻ってくる。秘密がわかち合われ、了承されたとき、プレゼントのやりとりによって人々は繋がりの強固さを確認しあう。

242p

この表現はものすごく素敵だと思います。そんな素敵なプレゼントを贈りあった関係をもっと大事にしていこうと思います。

愛とセックス

「いい関係においては、愛とセックスは一致するんだと思う」
そうティナが言うと、エドヴァルドは言った。
「身体のオーガズムと、頭のオーガズムがあると思う。セックスが前者で、愛が後者じゃないかな」
するとティナはエドヴァルドに向き直り、答えた。
「それが私の言っていることだと思うよ。そのふたつが、いい関係では一致するのだと思う」

229p

これは非常に同感です。逆に悪い関係だと愛とセックスは一致しない、というのも容易に想像がつきます。頭のオーガズムの方が、個人的には高尚だと思うけど、身体のオーガズムもセットで感じることができると尚良いよね。

面白かったところ

クスリと笑えたところや興味深いところを。

人生で初めてねずみを飼う人に会ったのが四十分前、初めてねずみを間近に見たのが三十分前、それなのに私はもうすでに生肌にねずみを受け入れてしまった。
「嫌だったら我慢しないで、遠慮なく掴んで放してくれれば大丈夫だから」
ザシャはそう言うが、掴めないからこうなったわけで、狼狽しかできない私の腹を伝い、ねずみはシャツの裾から顔を出して、今度は脚を駆け下りていった。

78-79p

クヌーデルはその後も何度となく多くの過程で「ドイツの名物料理」として出され続け、都合十皿はごちそうになった。そのどれもが、驚異的に同じ味だった。ドイツ人のクヌーデルへのプライドに圧倒されながらも、私は決して勝つことのできない芋団子との闘い、内心、険しい気持ちを抱え続けた。
ドイツ人はあまり料理に熱心でないというのは、本当かもしれない。どこで食べようと同じ味ということは、みなレトルトのソースで味付けをしているのではないだろうか。

120-121p

男性同性愛の当事者たちによって同性愛擁護運動が始まった。その運動の中心となった人物には、「同性愛(Homosexualität)」という言葉の生みの親であるジャーナリストのカール・マリーア・ケルトベニーなどがいる。

184p

「同性愛」ってドイツ人が生みの親だったんですね。

「障害があるからこそ、一〇〇パーセントの時間を私は彼と過ごせているかもしれない。これは犬を愛する人間にとっては特権じゃないかしら。健康であれば、たとえば職場にいるとき、犬に寂しい思いをさせてしまうでしょう。でも私は違う。このことに気づいたとき、私は障害に関する新しい見方を手に入れた。あんなに嫌だったのに、もはや障害を憎まなくなったわ」

213p

擬人化アニメは日本のお家芸ともいえ、その歴史はマンガの嚆矢ともいわれる平安時代末期の『鳥獣戯画』まで遡ることができる。人間と動物を厳しく峻別し、生物のヒエラルキーのトップに人間を置く西洋的感覚とは異なり、日本では昔から人間とその他の種はある程度緩やかに混交しながら存在してきた。キリスト教的世界観では、神に似せてつくられた人間には魂があるが、それ以外の生物、まして無生物には魂はないとされてきた。一方の日本は、八百万の神々の国である。森羅万象に神や精霊が宿り、動物や草木、石、器物さえも神々として祀られる。さらに、現在の擬人化や擬獣化のアニメ文化や、着ぐるみ文化の源流とも思えるものとして、妖怪がいる。動物めいた妖怪のみならず、無生物の石臼やら布やら傘やらがある種の命を与えられ、妖怪として道々を跋扈する。

224p

私はいま、性暴力の経験者として「カミングアウト」をしている。それは自分の過去を受け止め、現在から未来へと繋ぐ作業だ。傷は癒えなくてもいいのかもしれない。傷は傷としてそこにあることで、他者を理解するための鍵となることもあるのだから。そしてそれが、もしかしたらミヒャエルの言う「強さ」であるのかもしれない。

268p

性暴力に限らず、「傷は傷のまま」というのは非常に良い表現だと思います。自分もそう思うし。無理に治そうとしても治らないしね。

ズーたちにとって、動物は動物でなければならない。彼らは人間の代替として動物を必要としているのではない。動物にこそ彼らは癒され、ケアされている。初めから裏切りのない「愛」をくれる相手と、彼らは暮らしている。

275p

括弧つきの愛、なのも著者の批判的な目線を感じます。
動物という、こちらがしたことに対して100%で返してくれる存在を求める気持ちはわかります。しかしそれは代替ではないんですね。

以上感想でした。非常に良い本に出会えました。僕の考えを変えてくれるものに出会えたので、オススメしてくれたYoutuberさんに感謝です。

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