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 カウボーイ・ビバップを淹れる:SFの意義とハードボイルド

     

序文



 「おいスパイク、あがったぞ」

 と、厨房から低く唸る声。


 油のはじける音が船内に響き渡る。ほどよく焦げたピーマンのくすんだ薫りが、がらくた同然のボロ船のダクトを充満させている。しかし、絶対的な何かが足りていない。

 「肉の入ってないチンジャオロースがあるかよ」

不貞腐れたように独り言つ、天然パーマの、背の高い細身の若い男が、ソファをブーツの硬いソールで軽く蹴り、宙へ浮かび上がる。

 「文句があるならメシ抜きだ」
 低い声で、髭づらのスキンヘッドの男が言う。

 「かまわねえよ」
 「金が無えんだ、しかたねえだろ」
 「肉はなくても、仕事はあるみたいだぜ」

 若い男が指さす先には、モニターに映るちゃちな爆発のアニメーション、スピーカーから流れるわざとらしい銃声とファンファーレ。大仰に話しているのは、派手な恰好の無駄な露出の多い女と肌の黒いカウ・ボーイ風の男。宇宙を漂うやくざな賞金稼ぎたちの為に、太陽系中央放送局から広帯域チャンネルで放送される、おなじみの情報提供番組〈ビッグ・ショット〉だ。

 「さて、今夜はどんなメニューかな」
 若い男が虚ろな目でにやつく。

 「ろくな話じゃないだろうさ」
 「そいつはどうかな」

食卓に二つの器が並ぶ。オイスターソースに濡れた肉抜きのチンジャオロースが湯気を立てている。

 「良い肉が手に入りそうだぜ、ジェット」
 若い男が空中でにわかに回転しつつ呟いた。

 「まずはメシだ」
 低い声がやや昂ぶる。

 「そうだな、っと」

 そう言って、若い男は幸福そうに油まみれのピーマンを頬張った。



 「まずはメシだ」

 スパイク・スピーゲルはまた、にやついてみた……。




 要するに、「カウボーイビバップ(以下「ビバップ」)」(1998・サンライズ、ボンズ)とは、つまりこのような作品である。乾いた笑いと諦め、気怠くまどろむハングリー精神、生活空間・社会空間としての太陽系宇宙と宇宙船。物語に目的はなく、しかし登場人物たちそれぞれに人生の歴史があり、それぞれが呪いを引きずりながらも、因縁と過去を不敵に笑い飛ばそうと試みる。軽妙な会話劇が時空を貫き、死は近く、生は遠い。

 知人に勧められ、私はこの作品を鑑賞することになった。姉妹作品ともいえる「スペース☆ダンディ」は放映当時に視聴していたし、アニメ雑誌の記事も読んでいたから、その源流の存在と名前は幾度も目に入ってきた。知人はこの作品について、「とにかくカッコいいアニメ」「当時は誰もが憧れた」といった評価を与えていた。私と知人との間には世代の大きなずれがあり、私には「放映当時に名を馳せたSFハードボイルド・アニメーションがあるらしい」という程度の認識だけはあったが、視聴を勧められるまで、とくべつ興味を惹かれることもなかった。

 そうして、私は「ビバップ」の視聴を、やや惰性ぎみに開始した。全26話を観たのち、また同作品の劇場用アニメーションを鑑賞した。しかしこの作品は、私の感性に合致することは果たしてなかった。むしろ、困惑やうろたえといった感覚が、鑑賞中も、鑑賞後も、私の内に存在しつづけているのがわかった。ありていに言えば、私にとって、この作品はアニメーションについての、またSFアニメについての必須教養科目としての域を越えることはなかったのだ。

 総じて、この作品は退屈である。
 ただし、「ビバップ」の醸成する強い渋みやアク、酸味を味わうことに心奪われ、心酔し、没頭する場合は、その限りではない。

 この条件に相似する行為があり、つまりそれはコーヒーを飲むという行為である。

 


1.コーヒーを飲む理由と退屈、完走の原因


 コーヒーはなぜ飲まれるのだろう。
 おそらくそれは、コーヒーが「おいしい」からではないはずだ。私たちはその味を求めてコーヒーを飲むのではなく、この黒い液体が持つ、苦味、酸味、渋みといったものが混じりあって生まれる、ある種の感覚麻痺を求めてそれを手に取るのだと、私は思う。コーヒーは煙草や酒、軽い麻薬の代替物、あるいはそれに準ずるものであり、ただし健康を害しない点で、より優れているとも、劣っているともいえる。この曖昧さとほどよく軽いクセのある嗜好性とが、この液体の存在意義を保証しているのであって、またこの液体は、「退屈」の味覚としての、また嗅覚としての具現化であるともいえる。この適度な麻痺の提供によって、コーヒーは時間と精神の物質化を手軽に私たちへもたらすのである。
 退屈しているとき、人は無意識に刺激を求めている。刺激のフレーバーにこだわりはなく、楽しくても、悲しくても、あるいはくだらなくてもよく、またその刺激は危険であればあるほど、長い退屈によって麻痺した精神と肉体を興奮させるのに役立つ。コーヒーに危険はないが、代わりに「退屈」という精神状態を客観的に認識するための手助けとなって、それは私たちの手元で湯気をくゆらせながら、怠惰に危険を待ち望んでいるふりをしている。
 これらの点で、コーヒーを飲むという行為は、「ビバップ」によく似ている。強い趣味性、「危険を愛する」ことによって、小粋に現実を冷笑する態度、ハード・ボイルドへの憧れ、また内的な共感。人びとがわかりやすい行き先を見失った混沌の二十世紀末期において、「一時代を馳せた」アニメーションであったことにも、自然と納得がいく。

 ともかくも、私はこの作品を最後まで鑑賞し終えた。しかしながら、最終回のクライマックスを観ても、劇場版を観終えてもなお、困惑と疑念、そして退屈は消えず、この作品を好きになることもなかった。この原因は、作品の強い趣味性にある。
 危険を愛する二人の男、「天使みたいな悪魔」、あるいは「ほっとけない、あぶなっかしくてきれいな普通の女」、その因縁と過去。わざとらしいまでの「フィルム・ノワール」的演出は、たしかに魅力的だが、半面典型的すぎ、また不自然で、形式美に偏りすぎるきらいがある。
 謎めいた美女、拳銃、泥と血、煙草とブーツ……。「愛した女」という言葉に透けて見える、男女間の不等価性。こうした作劇・演出は、この作品のハードボイルド演出の極地である。これはひどく個人的な意見になってしまうが、この作劇趣味は、正直に言えば、私にとっては見ていてひどく退屈で、心底くだらないとさえ感じてしまった。この退屈の理由はなんだろうか。
 おそらくだが、このことは、スパイクとヴィシャス、ジュリアの三角関係、過去の因縁、危険と愛、そうした状況が描き出すハードボイルド的な「カッコよさ」に対して、世代的なレヴェルにおいて、まったくといってよいほどに、私の中に羨望の無いこと、憧れを持っていないことに起因する。世紀末に生まれつき、新世紀の黎明期に育った、いわゆる 「諦めの時代の若者」である私は、物語の主人公スパイクとほとんど同年代(執筆時現在)であるにもかかわらず、彼との精神感覚の乖離があまりにも大きかった。彼の出生年は二〇四四年であり、物語の現在時間は二〇七一年であっても、この物語の作り手たちが生きたのは、やはり私の生まれるよりずっと前の、人びとがより活発で、野心に満ち、強さに憧れていた時代なのだ。物語を受容する感覚の、世代間レヴェルのこの差異は、もはや些かの「ずれ」ではない。作品の作り手と私の間には、文化的な違いが既に生まれてしまっているのだ。

 常に退屈を感じながらも、なぜ私はこの作品の鑑賞を最後まで続けたのか。鑑賞中、しばしばこの物語の作られたわけ、作品が受容された時代のことなどを考えていた。明確な答えの出ないまま、物語は終幕に至った。そこで私が考えたのは、この物語から感じた得体のしれない困惑、疑念、退屈の理由を考えること自体が完走の原因だったのではないか、ということだ。
 そして完走の原因の判明と同時に、自分はこの作品を好んではいないが、けして厭ってはいない、むしろ癖になっている、ということにも気が付いた。
 軽快なビバップ・ジャズが流れ始めると、淹れておいたコーヒーのブラックを啜りはじめる。部屋を暗くして、読書灯に湯気がゆれているのを眺めながら、静かな夜が更けていくのを感じる……。そうした時間を、生活の一部として愉しむようにさえなっていた。作品とその物語の解釈や考察を肴にして、コーヒーの苦味を味わう時間を、私は好んだのだ。

 コーヒー豆にも種類がある。口に合わない、趣味に合わないコーヒーを飲んでいるときの悔しさ、苦々しさすら、コーヒーはその存在の深味として包括してしまう。(ひとえに「不味い」とは異なる点に留意されたい)
私はコーヒーを好むが、しかし酸味とアクの強いこの深煎りの豆は、どうにも私の舌には合わなかった、ただそれだけのことである。


 

2.ビー・バップ・ハード・ボイルド・カウ・ボーイ!


第一次大戦後に、アメリカ文学に登場した新しい写実主義の手法。
簡潔な文体で現実をスピーディーに描くのが特徴。
ヘミングウェイらに始まる。

            (「ハードボイルド」小学館・デジタル大辞泉)

 「カウボーイビバップ」という作品を形容するにあたって、これほど的確で簡潔な言葉もないだろう。この文芸用語のもたらした新しい概念と作劇イメージは、直訳の「固ゆでの卵」という意味をすっかり忘れさせてしまうほど、人びとの間に広く浸透している。またこの概念は文学を飛び出し、フィルム・ノワール映画を生み出し、今や知らぬものはないほどに一般的な概念・用語になっている。

 ハードボイルドは写実主義であるともいわれる。へミングウェイ「老人と海」では、題どおり一人の老人と一匹の巨大なカジキ、そして海そのものとの闘い、命のやり取りが、過剰な粉飾を避けたさっぱりとした文体でもって、感情的になりすぎず、あくまで淡々と描写されている。老人は力強く、闘いを愉しんでさえいるようにみえる。そうした特徴が、海、そして自然という大いなるものと人間存在の、原始的で直接的な関わり方のすばらしい表現を作り上げているのである。


 「ビバップ」を評価するにあたり、この概念なしには何も語ることはできないだろう。この概念そのものを具現化したようなアニメーションがこの作品であり、その雰囲気、また物語を構築するための中核こそ、ハード・ボイルドの概念である。
 主人公スパイクは自らの義眼について、その歴史について、誰かに言って回るようなことはしない。組織に属していた過去、好敵手となったかつての仲間との因縁、日々発生する危険と諸問題とについて、とくに何かを語るでもなく、感情を荒立てることをしない。飄々と小型宇宙船を駆り、通りをふらつき、死期を感じとった飼い猫のように、ある日前触れなく姿を消す……。

 この作品のハードさを助長するのが、菅野よう子氏によるオープニング「Tank!」だ。題にある通り、軽快なジャズの様式で作曲されたこのオープニングは、アニメーション作品には珍しく、(イントロ部の語りを除き)歌詞が一切ない。
 ジャズ音楽の一種として派生したビバップは、即興音楽、芸術音楽、非大衆性・非商業性の側面を持ち、当時音楽的な行き詰まりに陥っていたジャズを、より本能的なものに変えたとされる。それはダンス・ミュージックとしての定型を壊し、ミュージシャン主体の、アドリブ音楽としての新しいジャズの在り方をもたらした。その自由な形態は、ジャズに豊富な表現力をも与えることになった。ミュージシャンは芸術を行なうことを演奏の中で許され、ときに聴き手を置き去りにしながらも、それ以前の大衆性を脱し、ジャズの新しい価値を創造するに至った。
 現代のアニメーションのオープニングとしては、「Tank!」はかなり異例なものといえる。キャッチーさを排した過剰なまでのハードボイルドさが、物語自体のもつそれと相まって、まったく独自の雰囲気を作品に纏わせることに成功している。

 しかし、その強力な味覚は、一歩間違えれば自己陶酔の上滑りになりうるものである。 物語の雰囲気を直接的に表したような、ジャズ音楽そのままのオープニングに、ハスキーボイスで悲しげに歌い上げる「過去に引きずられた男」を暗示するエンディング(こちらも菅野氏による)。
 ジャズのアウトオヴデイトな趣味性も、さらに作品自体の自己陶酔を加速させ、前章で記した、世代差に起因する憧れの「ずれ」は深刻な断層となり、共感を妨げる。




3.SFと「カウボーイビバップ」


 二〇七一年の火星近縁、そして太陽系を生活圏として、スパイクとジェットのふたりはしがない賞金稼ぎをしながら、日々を食いつないでいる。そして旅の途中、記憶喪失のギャンブル女、荒廃した地球からやってきた天才児ハッカー少女、そしていわくつきのウエルシュ・コーギー・ペンブロークを仲間に迎え(あるいは勝手に船に転がりこまれ)、その日暮らしのアウトローな生活を、趣味半分に、肉抜きのチンジャオロースを食らいながら過ごしている。

 この作品は、ハードボイルドを体現するために作られたといってよいほど、その概念に沿った形で、演出・作劇が行なわれている。表現をくだいて言えば、つまり「カッコいい」をひたすらに追求して制作されたアニメなのである。その姿勢は、「賞金稼ぎ」をあえて「カウボーイ」と呼称しているところにも現れている。

 なぜ「カウボーイ」なのか。まず、その語彙の意味するところを確認しよう。カウボーイとは、アメリカ開拓時代の牛飼い業である。馬に乗り、牛を追い立て、買い手のもとへその群れを運ぶことが、彼らの主たる役目であった。時代が下るにつれ彼らの活躍の場は減り、やがてその特徴的な装いや、大地を駆ける自由かつ屈強な男たちというイメージだけが残った。


 「スパイク・スピーゲル」(spike 英:尖ったもの、Spiegel 独:鏡)とは、果たして何者だったのか。彼の体現するのは、個人としての強さ、独立性、ハード・ボイルドの理想像である。そうありたいという願い、夢を託すための存在が彼である。危険を愛するという行為、そして彼の自己陶酔的な生き方は、普通人にはとても真似のできることではなかった。ゆえに、人びとはその精神性に憧れ、理想の生き方を彼に託すことにしたのだ。
 同じように、カウボーイ(牛飼い)への「カッコよさ」の仮託は、この自己陶酔を象徴する構造だ。ただ、アメリカ開拓時代というロマンはあまりに時代遅れで、古くさすぎたために、代わりに宇宙空間を次なるフロンティアに見立て、その現代的翻案を行なったのである。その結果として出来上がったのが「SFハードボイルド」という方法論であり、またそれが唯一の解決策だったのだ。

 世紀末の社会生活空間の行き詰まり、閉塞感、そして「開拓者」になるには遅すぎる時代という事実が、この新しいアニメーション作劇法を導き出したのである。



 「カウボーイビバップ」とは何だったのか、何を遺したのか。
 西部黄金時代の夢の名残りなのか、来る新世紀への抗いか。少なくとも、その異色のジャンル・ミックスによって、特別の存在感をもつことになった唯一無二のアニメーションであることに、疑いの余地はないだろう。

 月位相差空間ゲート爆発事故という人災によって、帰る場所も行き先も失った女、フェイ・ヴァレンタイン。元警官のジェット・ブラックは、盆栽を世話しながら、腐れ縁の相棒のために鉄鍋をその義手で振るう。つきまとう過去、漂泊する現在、存在しない未来の中を彷徨い、男〈カウボーイ〉は真空の死へ向かって歩いていく……。




ところで、「序文」に書いた
小説体の部分には、重大な間
違いとごまかしが含まれてい
る。校正中に気づいたことで
もあり、作品の雰囲気を端的
に表現する為に効果的だとも
考え、あえて修正を行なって
いない。

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