自分を喪失した日

毎晩、さて寝るかと準備をして、布団に入ると同時に昔のことをよく思い出す。こういったことはこの世のほとんどの人間が経験したことがあるだろう。たまになら、「いやなものを見た」程度で済むのだが、私は毎晩やってくるので、たまったもんじゃない。最近メインで頭に浮かぶのが、「私」のアイデンティティについてだ。私はこれが私です、というものが思い浮かべることが出来ない。とても薄味で、海水に塩をぶち込んでいるかのような、ありふれた人間である。そういう人生を送っている(いた)。そんな感じであるので、個性のない、存在の薄い、というか自分そのものを吐き捨てたくなる位自分が嫌いだった。その中で、高校生の頃、髪を伸ばした。伸ばした理由は好きなアーティストへの憧れもあったし、初めての自分なりの「美」の挑戦だったのかも知れない。初めは、周りは違和感をぶつけてきた。なぜ髪を伸ばしているのか、何の意味があるのかだとか、私にとって言わせてみれば、「そんな不毛な質問をするな」ということをよく言われていた。
私はその質問に答えを言うことはしなかった、単純に面倒くさいからだ、髪を伸ばすのは個人の自由なのだから、ほっといてくれという気持ちでいっぱいだった。髪を伸ばして、少し髪が肩につき始めた頃、私はそれが自分という人間の完成型だと思った。同時に自分が好きになった。それからの生活は結構楽しかった。髪の毛のケアも楽しいし、愛着が湧き出てしょうがなかった。
 だが、それは終わりを迎えることになった。高校三年私は進学先への面接を控えていた。色々な面接への準備を進めていたころのこと。「髪を切った方がいい」とそう言われた。理由を何回聞いても、私の脳は理解することが出来なかった。その当時メンタルが崩れそうになっている私は、幾度か泪を流したことを覚えている。なぜ私は髪を切らなければならないのか、どうしても納得できなかった。「清潔感がない」「社会の常識」理由は色々だ、けど私はそうならないように一生懸命やってきたつもりだ。社会の常識と言われたが、髪の長さで能力が決まるのなら、全人類坊主でいいじゃないか。そう言いたい気持ちもあったが、私は言えなかった。大人の圧力と言えば言い方は悪くなってしまうが、実際そんなものだろうと思う。柔軟性のない風習というヤツが、私を切り刻むに至ったのだ、今、思えば、私に髪を切れと言ったときの顔はなんだか、裏に言えない何かを隠していたような気がする。ここからは私の個人の解釈だが、きっと、私が男だからだろうと思う。女であれば髪をまとめなさいで終わるだろう。けど男の私はそうはならなかった。私は信じていたこの世界にひどくがっかりした。何もかも捨てて諦めてやろうと思った。せめて、隠さずに言ってほしかった。そういえば諦めもついたかも知れない。
 私は、凝り固まったこの世界と大人の思想によって、自分を喪失したのだ。

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