派遣録 83 2度目の手術へ

手術の後は…

2012年の手術が近付いて来た。 
頭部に残った腫瘍を除去するためだ。俺はその事で頭が一杯だった。

事務所では白眼視されてはいたが、そんな俺と気軽に話してくれた職員もいた。
戸田くん(仮名)や白間さん(仮名)などだ。
“俺がなれなかった”準職員の方々だった。
だが、俺にはわだかまりはなかった。
二人とも、民間出身で、アシスタント職員の俺とも話してくれた。接しやすい人間だった。戸田くんは福原とソリが合わないらしく、時々もめていたなあ。

また福原の変わりに適用調査の庶務担当になった土肥(仮名)という女性職員の方とも話すようになった。俺の直の上司なのだが、話しやすい女性だった。

さらに手術の前に、事務所の見舞い金をもらった。

俺は複雑な気持ちだった。
術後の事を考えていた。
俺はどうなるのか?
3月にはアシスタント職員としても俺の契約が“切れる”…。
継続か?
職場復帰し、仕事は徐々に“元に戻って”きた。親しい人間もいなくはない。幻覚はもう見なくなっていた。

だが、2回目の手術後、俺がどうなるかは未定。
放射線治療もしたので、1回目のような事にはならないとは思えたが、そこは“未確定”だ。

そもそも、俺は契約させてもらえるのか?
脳腫瘍。
言葉が不自由。
以前の反抗的な態度。
さらに、準職員採用試験不合格。

俺が働きたくても会社側(年金事務所)がそれを望んでいないのなら無理だ。

そして、俺自体はそれを望んでいるのかは微妙だった。
正直、二回目の手術のことしか考えられなかった。
…甘かったなあ。

二回目の手術

2012年の春(2月)。俺は2回目の脳腫瘍除去手術をした。
1度目は、1日かかって死にかけた💦

だがこの間に、俺は横浜で放射線治療を施していた。

…なので、2度目の手術は2時間強で終わった。
俺の頭に残っていた腫瘍は簡単に除去された。主治医はまた松山医師(仮名)👨‍⚕️であり、術後、「今回は簡単だったよ(笑)」と笑顔😆だったのを今も覚えている。
1度目が不思議なくらい簡単に終わった。

ちなみに手術費用と入院費は30万円弱で済んだ。
俺の少ない貯金でそれを払った。
もう両親に迷惑はかけられなかった。


それでも、俺は期待していた。
不明瞭になっていた言葉の回復だ。以前のように話せると思っていた。滑らかに話せる、呂律が戻るのでは、と期待していた。

だが、そうならなかった💧
俺の口調は以前とは変わらなかった。呂律が回らず、酔っ払ったようなまま。吃りもそのまま。
表現は悪いが、知的障害者のような口調。それは変わらなかった💧

また理学療法(言語)のリハビリをしようかと思ったが、止めた。
放射線と除去手術でこの声が変わらなかったのたがら、やはり完全な回復は難しいと思った。
それはとてもショックだった。

残りの腫瘍が消えたら、もっと滑らかに話せるように回復できると思っていたが、それは叶わなかった…。

この事が、俺の“次”を決めた。
もう年金事務所はムリだ、と思った。 

さよなら年金事務所

手術後、その経過から俺は年金事務所に戻らない事を決めていた。
やはり言葉が元に戻らないのが一番の理由だ。
この呂律の回らない口調では、お客さんからの電話にも出られないし、他の職員とコミュニケーションさえ取れない。

さらに、あの“準職員採用試験不合格”という結果。

また、この頃俺はまだ少し、自分に期待していた。
脳腫瘍になったと言えども、まだ30半ば。
言葉は不自由。
だが、身体の機能は戻りつつある。
リハビリも順調だった。俺はここ(年金事務所)でなくても、働ける気持ちになっていた。

なので、二度目の手術が終わり退院したのが、2月の後半から契約期限の3月末まで俺は“休職”した。
両親は、契約期限など知らず、年金事務所へ「戻れ」と盛んに言ってきた。とにかく事務所に戻れば、“どうにかなる”と思っていたらしい。 
だが、俺にはその気がなく、もう辞めるに気持ちだった。

また、俺が一時復帰した時の白眼視、採用試験の“結果”、さらには“志の輔課長”のような(もういなかったが)パワハラ人間のいるような組織にはいたくなかった。もうたくさんだ、という気持ちが強かったのは事実。

俺は“あんな会社(組織)”でなくとも働ける。
そう心から思っていた。アホだ。

俺はまだ若い。
大丈夫。
すぐに働ける。
言葉以外は“普通”。
そう思っていた。バカだ。

そして、灼熱の2012年が始まる。
俺はこの後の怒り💢と嘆きを今も抱える事になる。
早く“終わらせたい”のだが…。


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