派遣録81 “その”夏

地獄

横浜のクリニックで5日間の放射線治療が始まった。

これ放射線治療)に比べたら、脳腫瘍除去手術など屁みたいなものだった
放射線治療自体は別に痛くと痒くもない。
事前に頭のデータを取り、クリニックの地下にある治療室で目隠しされるだけである。
後は、機械が勝手に放射線を俺の頭に打ち込み、腫瘍を攻撃する。

これは問題がない。
問題は治療後だ
それは1日目からだった。
とにかく気持ち悪い🤢
放射線を打たれた腫瘍が頭の中で微動するらしく、それが嘔吐中枢(?)を刺激し、俺はとにかく吐いた🤮🤮🤮
クリニックのトイレで、終わった後にはホテルの部屋で吐きまくった。
1日24時間、寝ている時は全て気持ち悪かった🤢

そして、後は猛烈な耳鳴り。
頭の奥に“チンパンジー🐵がシンバルを鳴らすおもちゃ”をぶち込まれたように、これまた24時間、ずっと耳鳴りがしていた。
気が狂いそうだった。
形容しがたい苦しさだ。

これらに比べたら、あの“志の輔クソ課長”の愚痴などゴミのようだ。とにかくキツかった💦
特に耳鳴り。気が狂いそうだった。『ジャンジャン♪』と頭の芯から響いていた。

大袈裟に聞こえるが、本当に地獄だった。

クリニックの医師の話では、それ(吐き気&耳鳴り)は『放射線が効いている』という証拠らしく、中には放射線を発射しても、腫瘍に変化が無い患者もいるので、俺はかなり“効いている”とみて良いらしい。

効いているの嬉しかったが、この五日間は本当に辛かった💦
耳鳴りは止まらず、トイレに入りっぱなしだった。
夜はロクに寝られず、ずっーと寝不足。
そして、クリニックではまたゲロ🤮
そしてホテルに戻り、またゲロ🤮

横浜まで介添えに来ていた親父が、ホテルのトイレで夜中吐いている息子を見て、横浜中華街で弁当を買ってきた。
とても食えない。

吐きまくり、俺の胃はカラカラ。
それでも放射線の影響でえづきまくっていた。

そんな俺に、親父は、『…何か喰え。身体壊すぞ』とその弁当を食べさせようとした。

これが辛かった。
こちらは24時間吐き気に襲われている。食欲などゼロだ。
それを食べろと誘う。とてもそんな気持ちにはならない。

だが、俺は親父の気持ちも痛いくらいわかった。

ゲロゲロ吐いている息子を見て、親父は弁当を食べさせるしか、することがないのだ💧

俺は無理やり弁当を食べて、まだ戻した…🤮

 

地獄の“本番”へ


地獄はまだ終わらない。
五日間の放射線治療が終わり、俺は浜松に戻ってきた。
吐き気と耳鳴りは続いたまま。気が狂いそうなのは変わらない。

帰りの新幹線内で吐かないように、必死に堪えて浜松に戻ってきた。

その後、次第に吐き気と耳鳴りは収まった。
これは良かった。
耳鳴りはこの後もしばらく続いたが。

そうすると今度は抜け毛だ。
俺の頭皮から頭髪が抜け出した。
寝ていて、(痒いな…)と掻いたら、掌が髪の毛だらけになった。

俺の頭は次第に、“ミステリーサークル”のように放射線を当てた部分の髪の毛が抜けた。全体の4割ほどが抜け落ち、“落武者”みたくなった。

髪の毛が抜け出すと、耳鳴りは収まりだした💦
そして頭はまだらに…。

非常に格好悪かったが、実のところ、俺は己の外見の酷さより、吐き気と耳鳴りが収まりつつあったことが嬉しく、抜け毛は気にならなかった。

公園にて、


2011年の秋、俺は放射線治療(横浜)から戻り、落武者のような容貌で自宅で過ごしていた。

会社(年金事務所)は休職したまま。治療に専念していたが、俺は良い歳して自宅にいるしかなかった。

することがなかった。
テレビを観るのは飽きていた。
趣味のバイクに乗れるはずがなかった。
仕事復帰など全く想像できない。なぜなら、まだ手術が残っているからだ。
俺の中にあったのは、松山医師(仮名)と約束した2回目の脳腫瘍除去手術だ。 

放射線を打ったことで、俺の頭に残る脳腫瘍は侵食を止め、除去しやすい状態になった、と医師は推測していた。
俺の体調が変わらないなら、年明けには2回目の手術ができそうだった。俺を含め、家族もその2回目の手術に期待していた。
そこで残りの腫瘍を全て除去したら、俺のこの口の不自由さなどが解消されると期待していた。

それには体力の回復が肝心だった。
4月の手術は出血もあり1日かかりの大手術になり、死にかけた💦
だが、放射線で脳腫瘍を“封じた”のなるば、もう大丈夫。あんな事にはならないのでは?

俺は、その二回目の手術に向け、体力を回復すべく、また暇なので昼間は自宅から歩いて、近くの公園にリハビリに出かけるのが日課になっていた。

午前9時頃、自宅を出て徒歩で公園に向かう。
そして、公園の中をグルグルと歩く。
ひたすら歩く。
それだけだ。

腹は減らない。また吐き気は少し続いていた。
公園のベンチで休み、また歩き回る。

2011年の夏の終わりから秋。
俺は毎日これを繰り返していた。
今から思うと、かなり奇妙な姿だ。
良い歳をした大人が、昼間から公園を周回。
さらに帽子を被っていたが、髪は抜けて落武者のよう…。
通報されかねない。完全に不審者だ。

1度、公園内の砂場を通ったら、遊んでいた子どもらが“モーゼの十戒”のように別れて“道が出来た”りした。
子どもらも、「このおじさん、ヤバいな」と思ったのだろう。

なので、土日は別の公園に足を伸ばしたが、そこに合った滑り台に登ったら、スラロームで吐いた🤮
(そして、そのゲロを持ち帰り…)

悲しき夏の終わりの夕暮れ

その夏🌻の終わり、秋🍂の色合いが見栄始めた頃、俺は自転車🚴に乗れるようになった。
そして、自転車での事故を懸念した親父は、俺の自転車🚲️を蛍光テープだらけにしたりした。

帰りがけ遅くなると、夕暮れ🌆を“ピカピカ✨に光る自転車🚲️”に乗る俺が、近所を走行していくので、相当奇妙だっただろうなあ。

そんなある日、午後六時まで公園でリハビリしていた俺が帰宅しようとすると、実家から電話がきた。

母から「親戚の叔母さんが来ているから、今は帰って来ないで」と言われた。
俺が脳腫瘍になった事を親戚に内密にしておきたい両親は、落武者のような俺の姿を親類に見せるのを嫌がった。

俺は仕方なく、夕暮れを過ぎ、夜になっていく公園のベンチで、ただただ周囲を眺めていた。

少し悲しい気持ちだった。
息子が『脳腫瘍になり、会社も休職中』とは言いがたい両親の気持ちはよくわかっていた。
世間体、という奴か?

それでも家族から「来るな…」と言われたら、少しは凹む😞💦
(…これが今の俺か…)
そう思わずにはいられなかった。

この頃、交際していた彼女が俺の為に、地元へ来ようとした。
俺はそれを断った記憶がある。

ちょっと冷静に自分を見つめだしたのかもしれない。
髪の毛は抜け、言葉はまだ不明瞭。仕事もしていない。
さらには、まだ手術がある。
俺は生きていて、それなりに頑張っているつもりだが、世間から見たら、『病み上がりの30半ばの“ハゲかけている”おじさん』だった。

蒸し暑く、何とも言えない気持ちの夏が終わろうとしていた。





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