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75年目のラブレター

 昭和20年8月6日、最初の原爆が広島に投下された日、父は呉の軍港にいた。出撃していれば、私は多分、この世に存在しなかったかもしれない。

 父は18年前に亡くなったが、葬儀の時に初めて知った。2年前に、手付かずにしていた遺品整理をしていると、生涯の記録がいくつか出てきた。例えば;

  • 佐世保鎮守府海軍志願兵徴募官の「甲種飛行兵に適する」証書

  • 運輸通信省の「三級滑空士免状」

  • グライダーを前に飛行服姿で同期生と並んだ一枚の写真

  • 高等工業専門学校の成績表と免状

進学するも海軍に志願


 父はどうやら、誰にも知らせず、まだ学生だった18歳で海軍航空兵に志願したらしい。農家の末っ子として親兄姉に可愛がられ、唯一進学した。成績はいつもトップで、将来は技術者として身を立てることが期待され、親兄姉や教師から猛烈な反対にあったことは確かだろう。父の言うことは何でも聞く母親が、兵隊志願とはつゆ知らず、佐世保への旅費を工面したのだろう。

 戦争は敗色濃厚で、航空機は足りず、制空権も失っていた。経緯はわからないが、終戦直前、海軍潜水艦部隊に転属している。特攻潜水艇「回天」の訓練をしていたようだが、海軍の上官は、敗戦を予期して、出撃させなかったらしい。

武勇伝の人

 葬儀後の宴席で、長く父と働いた高齢の紳士が、一時帰国した兄に、「ご尊父は、『武勇伝』の多い方でした」と、家族の知らないエピソードを語ってくれた。

 復員後、当時の内務省技官としての職を得た。しばし九州の地方事務所で仕事をしたが、いずれ東京に出られるものと準備していた。本省から現地視察に来た偉い人を迎えた宴席で、「あんたは、現場を見とらんし、何も知らん」と意見し、さかずきを投げつけられた。その傷跡が、額に残っているはずだと紳士は言ったが、その通りだった。その上司は、「あいつは絶対辞めさせるな」と言い残して、東京に帰った。

 干された父は、九州の山奥の現場事務所や暴れ川のある町の事務所を転々とした。母は、「水汲みに幼子を背負い、マムシの出る細い坂道を毎日往復した」と語るのが定番だったし、私は、水で溢れかえる川を、牛や屋根が流れていく光景を今でも覚えている。現場の若い人たちが、川では新鮮な鮎、海辺では大きな伊勢海老をバケツ一杯に持ってきてくれた。

 本省で出世した偉い人は、戦後復興の大規模計画が承認されると、新しい重要ポストに「九州にいる、あいつを呼べ」と他の候補を押し退けて指名した。家族は上京し、下町の「官舎」に入居した。

 父は橋を架ける仕事の専門家として、全国を回った。私は今もその一部の高速道路橋を渡ることがある。

 武勇伝は続くのだが、極め付けは、時の大臣への直訴事件。大臣は大物だったが、人事刷新と称して、多くの人が異動させられたり辞めることになった。父は、大臣室に行って、「あんたが辞めろ」と迫った。父が帰ると大臣は官房を呼んで「あいつは明日、辞表を持ってくるだろう。絶対に受け取るな」と命じた。

 後日父は辞めることになるのだが、大臣も総裁選出馬のために1ヶ月で辞めた。退職金より、省の有志が集めた餞別の方が多かった。父の退職を知った役所向け新聞の社主が感服し、存命中の20年以上に渡り、毎年秋に国産松茸を送ってきた。黒塗りの車に帽子を被った運転手が届ける松茸は、一度だけ、七輪と炭を買ってきて、父と私と妻の3人で食べたことがあるが、松茸が届く理由は知らなかった。

 民間会社に移ると、橋の専門家として活躍し、大きなプロジェクトや学会で世界中を回った。会社が赤字に陥った時に、新たな収入源として会社を支え、役員待遇になった頃が頂点だったかもしれない。心血を注いだ海外の巨大プロジェクトの入札に負けてから、口数が極端に少なくなり、肩を落としていたと言う。間も無く認知症を発症した。

75年目のラブレター


 もう一つ見つかったものがある。内務省の文字が印刷された原稿用紙3枚に、丁寧な文字でびっしり書かれた手紙だ。実は父が母に宛てたラブレターで、母の遺品整理で見つけた。すっかり焼けた手紙は、75年間、母が保存していた。

 デートの申し込みのようで、「自分は田舎の農家出身で、会うのに良い場所を知らない。人目につくとあなたは困るだろうから、県庁のある街に行って探してきた喫茶店があるのでどうか?」と聞いていた。

 母は、東京出身で軍人の父と、鹿児島の商家の娘で、結婚後実家の敷居を一度も跨がなかった気丈な母の間に、東京で生まれた。戦争中、家族で九州に疎開し、戦後、事務の仕事を見つけた。職場は、父が勤め始めた役所の地方事務所だった。父は手紙で、「自分は田舎者で、文学や音楽とも無縁な武骨者だ。美しい都会の女の人には不向きかもしれない。でも、真面目で正直で嘘をつかない人間だ」と、切々と訴えている。

 妻に見せると、「(義父が)少し可哀想」と一言漏らし、読むのを止めた。このラブレターは、父と母のものなので、明日火葬に付す母の棺に入れるつもりだ。

はなやかな人

 武勇伝の父に対し、母はエピソードの多い人だった。

 「入院しても人には知らせるな。死に顔を他人には見せるな。葬式はやめてくれ。」が母の遺志だった。友人・知人はもとより、近所や立ち回り先の誰からも、「上品ではなやかな人」と言われた。白髪で西洋人的な風貌をした母が、他の母親とは随分違っていたのは確かだ。

 海外旅行に、分かっているだけで51回以上出かけた。「今年が最後」と毎回言っていたが、「最後」は倒れる半年前で、89歳だった。団体行動はできない人で、全て個人旅行の行き先のほとんどがヨーロッパだった。兄がスペインに長く住んでいるので、毎年訪れるのも目的だった。特に名所旧跡を回った訳でもない。

 小さな街のカフェで、コーヒーを飲みながら地元のおばさんたちと話すのが好きだったようだ。言葉が通じていたか怪しい。「オッラー」と「ムーチョ、グラシャス」以外のスペイン語を聞いたことがない。言葉は通じなくても心は通じていたのだろう。兄に内緒で一人で行った時、地方の友人宅を訪ねたまでは良かったが、汽車に乗って兄の住む街に現れ、近所の人から母が歩いていると言われて、兄を仰天させた。

 ブランド物には縁がなく、バックも服も宝石も持っていない。唯一の贅沢はWAKOのラベルのついた服だが、小さい穴やほつれ、シミがあった。気に留めなかった。食べ物も結構質素だった。しかし、個人海外旅行には、人生を賭けるような意気込みがあり、父が残した貯金は、ほぼ使い尽くしていた。

 都会育ちで、父方の実家が結構裕福だったこともあり、女子だけの高等学校に通い、自由な将来像を描いていたのだろう。戦争で九州に疎開したのは想定外で、更に、農家の次男と結婚した背景には、勉強のできた二人の弟を大学にやりたいという経済的理由もあったようだ。父は、母の弟の学費を援助した。

 財布は生きている間は、父が握らざるを得ず、母は生活費をもらっていた。経済感覚が無いので、半月もすると消えたそうで、生活にあまり余裕はなかった。

 「華やかな」でエピソードの多い人は、家族にとっては、結構大変な人だった。外面そとずらが良かったので、外の人には分からないことが多々あった。晩年は、最低限やって欲しいことはやらないが、絶対やめて欲しいことは必ずやるので、私とはよく衝突した。年老いた母を思わず怒鳴ってしまったことは、思い出す度に、悔やまれる。親子の関係は複雑だが、老先短いのだから、広い心で接するべきだった。

 記憶も記録もやがては消えていく。明日、母を見送る前に、一部を書き留めた。

(了)

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