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セックスは何を隠した

「子どもっていうのは、神様から授かるものだから、子どもを作るなんて言い方をしたらだめよ。私たちは素晴らしいプレゼントを授かっているのよ。」

スラム街に住む子どもたちに配給をして回る道中、シスターは私の目をまっすぐに見て、そう言った。


一年中日差しの降り注ぐ、日本よりもはるかに発展の遅れたこの地に移り住んで、はや一年が経った。肌の色も違えば、身長だって周囲より頭一つ分はゆうに高い。チップの文化だって知らなければ、そもそも言葉だって十分に理解できたと思えたことはない。

それでも、自分の居場所を探して(いや正確に言えば、ここではないどこかへ逃げ出せば、きっと私のいるべき場所があるんだという妄想に取りつかれていただけだったのだが)、この国へやってきた私にとって、身体を制約する違和感など取るに足らないものであった。

しかし、あの痛いほどの日差しの下、シスターに投げかけられた言葉は、異国での生活の中で感じる何よりも、私の心に違和感を残した。


幼い頃より、キリストの教えの中に生き、世の中のでたらめな享楽を求めることよりも、神とともに生きるという崇高な選択をした彼女は、私にとってまさに尊敬に値するものであった。

俗世のしがらみから逃げ出したいと願い、しかしながら、そのしがらみに縋り付いて生きていくしかない私は、彼女の決断に、そしてその選択によって、豊かな人生を生きていると疑うことのない彼女の精神に、畏怖の念すら抱かざるをえなかった。

私がもし、彼女に後ろめたい感情を抱くことがなく、自分自身を愛することのできる人間であったなら、キリストに対しても、そしてその教えに対しても、醜いちっぽけな懐疑心など抱かずに済んだのだ。


蒸し暑いベッドの上で、扇風機からの風だけをたよりに穏やかな眠りを願う私。

可能な限りのすべてを手放し、生まれ育った日本から逃げ出したわけであったが、眠りだけが私をあらゆるすべてから解放してくれるという事実だけは、不幸にも手放すことが許されなかった。


……ピンポン

いつものように頭を空っぽにして瞼の裏を覗く、私の唯一の安寧は、一通のメッセージの受信音によって唐突に終わりを迎えた。

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久しぶり、そっちに行ってからもう一年だけど元気にしているの?

あんた全然連絡もよこさないから、こっちは心配してんのよ。

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すべてを手放す勇気もない私は、親しかった友人の連絡先を削除することなど到底できないままでいた。

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ところで、突然なんだけど、私結婚することになったの。

まあ、今でいう授かり婚ってやつ?

あんたのことだから結婚式に招待したって意味ないことは分かっているけど、報告だけはしておきたくてね。

まあ、また日本に帰ってきたら、連絡してよ。

私と、かわいい赤ちゃんの顔ぐらい見においで。

体には気を付けてね!

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旧友の慶事に、祝福のメッセージぐらい送らねばと思い、返信を打ち始めた私の中で、またあの違和感が作用し始め、私の手を止める。

あなたは子どもを作ったの?それとも授かったの?

数々の宗教が生まれた遥か昔、科学などもちろん発展していなかったはずだ。人間は、生命の、いや自然の神秘にもっともらしい理由を与えることで、祝福も困難も、自身に起こるすべての事象を、真に受け止めることに成功したのだろう。

けれど、今この時代に至っては、神様からのプレゼントの発送経路だって明らかになり、ましては、受取拒否だってできるようになったではないか。


もちろん、子どもがほしくたって、それが能わない人々がいることだって理解している。

しかし、今私が存在している21世紀においては「作る」ことだって許してくれてもいいじゃないか。

「授かる」ことと「作る」こと、心優しい旧友がどちらだったのかは分からない。

しかし、その違いを生み出すものが意志であることは明らかだろう。

そして、「作る」ことよりも「授かる」ことを通して、世界の人口増加は促されているのだろう。



「もう、あんたと口きくのやめる。今後私に関わらないで。」

いつもように頭の中をかき乱す例の言葉の作用にやられて、携帯を持ったまますっかり手が止まっていた私を、懐かしい記憶が現実に連れ戻した。

学生時代、私の数少ない友人だった彼女と旅行に出かけるはずの朝、

「ほんとにごめん、今日バイト入ってたの忘れちゃってた。どうしても休めなくってさ。また今度埋め合わせするから。」

申し訳なさそうな、彼女の電話越しの声によって、私の数か月の楽しみはあっけなく消え去った。


数日後、彼女からランチに呼び出された私は、消化できない苛立ちを抱えたまま、彼女とスパゲッティを食べていた。

「この前は、ほんっとに悪かったね。再来週の土日は完全に予定空けといたから、埋め合わせといっちゃなんだけど、どっか出掛けない?おいしいもの奢るからさ。」

「…どうせまたドタキャンでしょ?」

唯一の親友とも呼べる彼女との予定の喪失に、依然として寂しさと怒りを抱えたままだった私は、一方的に彼女を口撃した。

男ったらし… いつも私のレポートを写してくる…

いつもなら気にもならないような些細なことへの悪口が、より一層私の不満を増幅させ、とうとう思ってもいない一言を彼女に投げ放った。

「もう、あんたと口きくのやめる。今後私に関わらないで。」

何も言い返さずに私を見つめる彼女の姿に、ばつが悪くなった私は席を立ちレストランを後にした。

気付いていた。自分にとって最も大切なはずのものを、自分自身の手によって粉々に壊してしまったことに。


喪失とともに帰路につく私のポケットの中から、バイブレーションとともに携帯電話が鳴った。

「もしもし、今何してるの?暇だったら、今からうち来てよ。」

付き合って間もない彼からの連絡に、私は断ることすら煩わしく、その足で彼の家へ向かった。


空っぽな相槌をうつ私との空気に耐えられなかった彼は、

「どうしたの?話聞くよ。」

とテンプレートの優しさを与えた。

喪失の悲しみを、自分の愚かさを一通り話し終えると、彼は何も言わず私に口づけをした。身を任せるままにベッドに誘い込まれた私は、一切の抵抗もなく、心の中の虚無とともに彼に包み込まれた。


セックスとは厄介なものだ。

血液型すら知らない彼が与える愛が、旧友を失った私の悲しみを瞬く間に包み込んでいく。

快楽の前に、あっさりと崩れ去った私の存在。自尊心。

すべてをいとも簡単に包み込んでいった愛の形骸に対して、ただただ身をゆだねるしかなかった無力感が、いまでもねっとりと私に付きまとっている。




神は意図して、セックスと生命の神秘を結びつけたのだろう。

生物が本能的に求める快楽と、種の存続という生命の根源的な性質を結びつけた。

そして、人間のちっぽけな意思が、神の意志に逆らえぬよう、セックスによって、その結合点を隠したのだ。

我々自身の存在と、次の命の存在と、そしてその周りに渦巻く因果と…

あなたは一体、その内に何を隠されたのだろう。

そして、私はその答えをいつか見つけ出すことが出来るのだろうか。



気付けば、携帯の画面は明るさを失い、私は暗闇の中を見ていた。

いつものように、あの言葉の作用に翻弄された私には、祝福のメッセージを送る気力も残っていなかった。

全てを諦めた私は、そっと目を閉じ、精神の解放を願った。

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