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二つの必要条件

2017年12月某日
シャワーを浴び、一張羅を着る。
歯磨きを済ませ、頭と髭を整える。
周囲への感謝と、世界の幸福への祈りを簡潔につづり、封をする。
部屋を片付け、ドアノブには幾度となく強度の確認を済ませたビニール紐を括り付ける。
照明を落とし、ジャスミンが香るキャンドルを焚く。
スピーカーからは、チェスター・ベニントンの遺作One More Lightが流れる。
大量のウイスキーを流し込み、思考に厚い雲をかける。
そして、携帯の電源を落とす。
三年間の月日を経て、必須条件をすべて満たした私は、最後の準備を済ませた。

2014年冬、半年以上にわたり鬱病を患っていた私は、同じように死を企図した。
被虐待経験のある私にとって、幼少期より、死は遠いものではなかったし、むしろ20代中盤における人生の終焉は約束されたものであった。
しかし、ある一つの条件を満たしていなかったがために、この決闘は、空虚な諦めを私にもたらすだけとなった。

人生の残り時間を数えながら、モノクロな毎日を消化していた二十歳の夏、私は人生において唯一心を通わせたであろう女性と出会った。
他者の存在をあるがままに受け止める、自尊心に満ちた彼女は、ただひたすらに私の苦悩に耳を傾けた。
体の奥底で凍ったままのトラウマティックな記憶をひとつひとつ解凍し、そして心の引き出しに片付けることに成功した。
そして、彼女の支えによって日常に色を取り戻していった私は、死ではなく、自らの人生を他者の為に使うことを選択した。

社会人になった私は、学生時代を過ごした街を離れ、私と同じ経験を持つ子どもたちと向き合っていた。
彼女のもとを離れた後も、電話によるやり取りは続き、彼女が私の唯一の心の安寧の場所であることは決して変わらなかった。
しかし、過労と孤独と、トラウマと。
一人になった私は、気が付けば暗闇の中にいた。
「もともとこの予定だったではないか。そもそも私には荷が重かったのだ」
全てを諦めた私は、解放へと繋がる一つの輪に首を通していた。

一度は生へ向かって歩き出していたはずであったが、気付けば、死と私は以前の距離感を取り戻していた。
予定調和の儀式の中で、私は辞世の句をしっかりと書き残した。
彼女を含む、私に関わってくれた各人への感謝と思い出。
そして、その後多大なる迷惑をかけるであろう、会社と家族への謝罪。
酩酊の中、五枚にも渡る遺書を書き残した私は、微塵の抵抗もなく、自作の絞首台に立った。
解放の輪に首を通し、残される行為は自身の生命を支える唯一の椅子を蹴り飛ばすだけになった時、体内から湧き出す何かを感じた。
そしてその何かは、死への強烈な抵抗を示し、私の体をただひたすらに硬直させた。
私の身体を残し、涙だけが重力に従い流れ落ちた。
絞首台から自らの意志でおりた私は、電話越しの彼女にひたすらに救済を求めていた。

必要条件を満たしていなかったのだ。
心身ともに朽果てていたはずの私は、社会の中にまだ存在していた。
耐えきれない苦痛からの解放を願う私の肉体と精神に反して、社会の中の私は、頑なにそれを許さなかった。
私の死によって真に悲しむ人の存在が、大切な彼らの悲しみを拒絶する私の心が、私を生へと縛り付けていた。

社会的な死という条件を満たしていないこと知った私は、解放への挑戦を諦め、自身の心身の苦痛を取り除くことに従事した。
仕事を辞め、長年にわたる治療の末、病からの解放を告げられた頃には、以前のように深い暗闇の中に沈むことはほとんどなくなっていた。
しかし依然として、死と私の距離がひらくことはなかった。
治療によって、透明な心身の回復を告げられようとも、私の肉体と精神はすでに腐敗していたのだ。
そしてその頃には、私は社会の中には存在していなかった。
従来、私を生に縛り付けた彼らも、その後の私の人生にはもはや関わることはなく、私の社会を形成していた人々はいなくなった。

そして、かつての決闘から三年の時を重ねた今夜、
心身の死と、社会的な死の二つの条件を満たした私は、再び絞首台に立っている。
もう、何枚にも渡る遺書は必要なかった。

そっと目を閉じ、手をおろす。
自身のなかに一切の抵抗を感じないことを確認した私は、最小限の力で、重力の中へと飛び込んだ。

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