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絶望とチューバ 2

  電車が過ぎていった。そして、とりあえず改札を通り抜けようと足をゆったりすすめると、ぎゅっと熱を持たせた手で俺の方を掴む者があった。どんよりとした重い頭で振り向くと体が縦にも横にもでかい、相撲取りかというくらいの中年男性が、頭から汗をびっしょり流していた。呼吸は乱れてい、彼の大きな胸がまるで蛙の喉のように膨張と収縮を繰り返していて、俺はしばらくじっと見ていたのだ。そして、ハンカチで額の汗を拭きとりながら、以前からの知り合いであるといった口調で喋った。
「なにしいやんの?あかんで、ホンマ。体大事にしいや。」
 事実、そいつは知り合いなのだった。よく見ると、中年男性の肉体であるともに、角を上空に向けた蝸牛を思わせる大きな金属の塊、つまり俺が吹いていた楽器のチューバでもあるのだ。
 チューバを知っている人がどれくらいいるだろうか。吹奏楽の花形であるトロンボーンでさえ知らない人がいるのだから、それを考えると恐ろしい。チューバはオーケストラでも使われていて、上手の端にでっかと座っている巨大な金管楽器である。俺は、こいつは惜しいやつだなあ、とつくづく思う。一番響きが豊かで、音域も驚くほど広く、言葉にならないほどの才能の持ち主なのにも関わらず、誰も吹きたがらない。伴奏を任されてばかりいるのである。もちろんメロディこそが至高だ、とは微塵も思わないのであるがそれにしたって、ひどいときには四分音符の連続で曲が終わってしまう。重くて持つと疲れ運搬が困難だし、大きすぎて演奏者の顔が見えない。それでも、俺はこの楽器は本当の楽器だと俺は信じている。それに、実際そうなのだ。しかし、俺は気まずくなった。粘っこい悪意のあるものが俺をむしばんでいて、大分長い間悶えてい、俺はしばらくチューバを吹いていなかった。
 俺を引き留めようとするチューバの瞳は、金属のようにまっすぐに光っていた。彼だけは俺を信じてくれている。そう思えた。光沢のある、美そのもののような瞳。その瞳に吸い込まれた。
 気が付くと、もう駅舎の中ではない。俺は周りを見やった。広い地面に俺は一人立っていた。それをちっぽけに思わせるほどの大きな石段が俺を取り囲んでいた。その石段の上に、おびただしい数の人間がい、俺を見ている。人々はみな一枚の布を体に巻き付けていた。金色の鎧をまとった人もちらほらいた。緊張でびくびく足が震えている。俺はこれだけ大勢の人間に注目されたことはないのだ。俺が初めて都会にいって人ごみに入った時、自分は主人公ではなく、ただ普通に生きて死んでいくものでしかないと思い知らされた。その俺を人々が見ている。しばらく受け入れることが出来なかった。俺が望んでいたものは、こうも重苦しいものだったのか。肩に、象が乗っていると思えるほどに圧がかかる。
 駅に戻りたい。また逃げるのか。いや逃げではない、冷静に判断した結果だ。逃げるのか。だから逃げではないと言っているだろう。逃げるな!
 俺は頬を強くひっぱたき、肩を回す。観客は急に静かになった。戦う、俺は戦うぞ!
いつの間にかチューバをかまえている。俺は、今日、この場所で、変えてみせる。そう思うと、汗がどっぷり流れたし、心臓の鼓動音もはっきり伝わってきた。俺は勇気を振り絞って息を大量に吸い込み、音を奏でた。チューバの響きが轟いた。チューバが響きで揺れているのが体全体で感じられる。俺は自分が吹いている曲がなんなのか知らなかった。不思議に指が回るし、息も迷いなく吐けるのだ。初めのフレーズが終わって、鯨の鳴き声だけがする大海原のような、余韻と静けさが辺りを満たした。
曲が進むにつれ盛り上がってゆき、俺は全てを、その流れに委ねた。俺は、喉に突っかからない、自然な涙を流しているのに気付いた。今、初めて自己が形成されたように感じた。ああ、俺は生きている、生きているぞ!
演奏しながら、遠くのほうで、なにか黒いものが近づいてくるのが分かった。正体に途中で気づき、肝を潰した。大きな雄牛が俺に向かって突進しようとしているのだ。全身が真っ黒で、鋭利な角を持っている。衝突したらひとたまりもない。どんどん迫ってきている。あと数メートルだ。来る。もうだめだと諦めかけた時、黒牛は高く跳ね上がり一回転して俺を飛び越えた。すると黒牛はユーフォニアムを演奏している若い男に変わった。彼は俺の曲に加わり、これで編成はバリチューになった。彼のユーフォニアムの響きは、俺に突進してきたとは思えないぐらいまろやかで、あれくたい海賊の魅力をもった俺のチューバと絵の具のように混じりあった。俺とその男は時々目を合わせ、そうでない時でさえ、心を通わせあった。彼が俺を導くときもあれば、その逆もあった。もはや一つの楽器であり、俺たちは一人の人間だった。ようやく人と通じ合えた。その思いで胸がいっぱいだった。
しばらくして、フィナーレを迎えた。もう膝は震えてない。心が透き通った水に満たされているみたいだった。
俺と彼は息を合わせて楽器を振り上げ、振り下ろし、最後の音を吹き終わった。観客の拍手と歓声がいつまでも止まなかった。
 

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