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絶望とチューバ 1

 人差し指を嚙んだ。このことによって自己を二つに切り分けられる気がした。赤黒く魔女のように僕を誘い込む血。その血が出る前に、噛むのを止めてしまった。僕は、どこまでも自分であった。僕は人とついぞ分かり合えたことはなかった。自分と他人は混じり会えないし、自分は切り分けられない。この世界をどうして好きになれるのか。空気はずっしりと重く、それでいてゴムのように粘っこく、僕の体にまとわりついて、果てしない自責の世界をより深いものにした。外へ溢れ出るはずだったどろどろの赤黒い血は、ずっと内部にあった。     
 暑さは5月だとは思えない。住んでいる町よりも南に来ているからというのは分かってはいるが、駅舎の中のベンチに座っていても、汗が止まらない。
 この現実から逃れようと窓を眺めやる。僕のことはどうでもいいというように沢山の車が横切っていて、何食わぬ顔で流れて変形し続ける雲を見とめると、すぐにその希望は消え去った。僕の喉は渇きとも潤いともつかないなにかモヤモヤしたものがこびりついて離れなかった。結局窓というものも、外の世界を見せるだけであり、僕の存在などは気にもしないのだ、と思った。そして僕はがりがりと頭を掻きむしり、あの狂気的な、ともすれば快楽に通じる自責の世界に入り浸った。
 どうしようか、と僕はここにきて悩んだ。次の電車に乗ると住んでいる町に戻るわけであるが、もう日が傾いているから、駅で同級生とはちあうに違いない。それは何としてでもさけねばならなかった。そのまた次の電車に乗った場合、和美という今後行くことがないであろう小さな町で降りることになる。そこにいくとちょうど残ったお金で我が町に帰れるわけである。町への電車は8時頃になるが、そのくらいじゃないと学生は帰らない。しかし、どう考えても、さすがにそんな夜中まで帰らないのは家族に不審に思われる。携帯の中でお金をやりくりするのでどちらかの切符を買う必要はないわけだが、どうする。しばらく決めきれないでいた。
 そのときである。僕の影が、逆再生したアメーバのようにどくどく縮小していき、僕の肩幅くらいの直径の円になったか思うと、壁と地面にへばりつくしか無かった影が、にょきにょきと上にのびて立体になった。形は僕そのものであったが、やはり影であるから真っ黒だった。僕はぎょっとして、影から目が離せなかった。影は言った。
「おかしいとは、思わないか?」
その口調から、顔こそ見えないものの、きっと影はいやらしくにっと笑っているだろうことが想像できた。こいつ、僕を蔑んでいる。
「つまりさ、お前ってやつは、本当のところでは家出する気なんてこれっぽっちもないのさ。さらにもっというと、自己嫌悪をしている、いまが人生のどん底だ、なんて心の中でわめいているが、いいや違うね。そうすることで、ああ、自分は人と会話できないのだとか言って、どこかちがう自分を作り出して、そのめんどうくささから逃げている。」
「違う、勝手に決めるな」
大声で叫んだ。喉はからからに乾き、心臓の脈打ちが早くなった。
「本当は分かってるんだろ?お前が勝手にそう思っているだけだ。まあ、遠くへ行って、みんなに迷惑をかけるといいさ。」
 僕は立ち上がり、おどりかかった。しかし影は二次元の世界に戻ってしまい、いくら踏んづけても無駄である。僕は怒り、憤った。僕の、人間の複雑な思考をこんなに分かりきった風に語ってよいはずがない。それでも、体の力がなくなり、すとんとベンチに座った。そして数秒放心した後、手で顔を覆って涙を流し始めた。
 僕は自分を責めているということで、自分を責めた。同時に、やはり実際僕が悶え苦しんでいることは確かであるとも思い、結果として苦しみが倍増してしまった。
 僕はしばらくそうしていた。心臓のなかに液体とも固体とも気体ともつかないものが入り込み、それらがぴったりと張り付いて僕を圧迫する。なぜ自分は兄ではないのだろうという疑問が浮かんできた。誰とでも明るく接して、楽器も吹けて、勉強もできて、何でもできる兄。どうして、僕は兄ではないのであろうか。なぜ、僕は兄ではないのだろうか。どうして―
 しばらく経って次の電車には乗らない、と決めた。

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