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桂ざこば師匠

【上記記事より抜粋】

桂ざこばは、文化勲章を受章した上方落語の大師匠、三代目桂米朝の弟子だ。米朝の筆頭弟子は三代目桂米紫(上方落語協会事務局長)、続いて月亭可朝、さらに二代目桂枝雀と続き、ざこばは米朝4番目の弟子だった。  しかし米紫と可朝は他の師匠に就いた時期があり、米朝の内弟子ではなかった。内弟子修行をした弟子としては、昭和の爆笑王と言われた桂枝雀に続く2番目で、米朝一門の次男坊という感じだった。
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ざこばは、この後「動物いじめ」というネタで世間の注目を集めるようになる。 「犬をいじめますな。犬は3日飼われたら飼い主の恩を忘れないといいますな。そこで、2日ごとに飼い主を変えますな。犬、ノイローゼになりますな」 「いろいろと動物をいじめるんですな、キリンをいじめますな。キリンに熱い熱い餅を食べさせるんですな、キリンは首が長いから、いつまでも熱い熱いいいますな」
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次にざこばが注目されたのは日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のレポーターだった。様々なスキャンダルを取り上げて、真相を追及する。センセーショナルな音楽とともに「新聞によりますと!」とスキャンダルを紹介していく。レポーターは泉ピン子、横山やすし、桂ざこば、今思えば実に濃厚な顔ぶれだった。
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ざこばの精進の甲斐あって、1981年3月13日、大阪のサンケイホールで「第1回桂朝丸独演会」が開催されることになった。  落語家が寄席以外の会場で大規模な落語会=「ホール落語」を定期的に開催した嚆矢はざこばの師匠の三代目桂米朝だと言われる。1971年7月からサンケイホールで始めた「桂米朝独演会」が大人気となったのだ。続いて1976年、ざこばの兄弟子の二代目桂枝雀もサンケイホールで「桂枝雀独演会」を始める。  サンケイホールは米朝一門にとって「檜舞台」と言える大舞台だった。  演目は「子ほめ」「不動坊」「首提灯」。ざこば(当時朝丸)は、満を持してこの日を迎えた。  師匠の桂米朝は当日のパンフレットに、こんな一文を寄せた。  朝丸と南海電車に乗っていて、難波に近づき車窓から大阪球場の灯りがちらっと見えると、  朝丸は「今日は暑かったから、ビールがよく売れるやろうと思います」  と言った。  朝丸は、家庭の事情で中学からアルバイトをしていた。こんなあどけない子どもが、重たいビールを担いで、急な段差のある球場を上り下りしていたかと思うと、胸が詰まるような思いがした。  その朝丸が、今日、初の独演会を開く。褒めてやってほしいと思う。  ざこばは、高座に上がるなり「パンフレットの文章、よんでくれはりましたか」と客席に言い「嬉しい」といって男泣きに泣き始めた。客席ももらい泣きをし、それから大きな拍手が起こった。  1947(昭和22)年生まれのざこばが大阪球場でアルバイトをしていたのは、昭和30年代半ば。南海ホークスの全盛期だ。杉浦忠、野村克也、広瀬叔功らが活躍していたはずだが、ざこばはグラウンドに目をやる余裕もなく懸命にビールを売り歩いていたのだろう。  そんな境遇から必死に這い上がって、テレビの人気者、そして落語界の大師匠へと昇って行ったのだ。


【上記記事より抜粋】

最初はしゃれかな、と思ったが、そうじゃなかった。高座で桂ざこば師匠が、けんか腰で罵詈雑言を浴びせかけたのだ。舌鋒の血祭りにあげられたのは、あの立川談志。

 談志師匠は出演しなかったが、確か一門のどなたかの、東京は有楽町で行われた会での出来事だった。「なんやあの人は!」「東京ではしょっちゅうしてるらしいけど、うちの師匠の会を無断で休むなんてありえへん」。紅潮したままざこば師匠は、落語をやらずに高座を降りた。

怒りの源は、1995年11月11、12日に大阪府池田市で行われた「米朝・談志二人会」にあった。2日目を談志師匠が連絡もせず抜いた(=欠席)のだ。

「15歳で弟子入りした米朝師匠のことをお父さんのように思っていた」(在阪演芸関係者)というざこば師匠は、米朝師匠の顔に泥を塗った談志師匠をどうにも許せなかった。何事に対しても白黒はっきり言う性格で、師匠の気持ちを代弁した形だ。ちなみにその夜、談志師匠の代演を務めたのは他ならぬざこば師匠だった。

 米朝・談志両師匠はその後15年にわたり疎遠になっていたが、談志師匠が亡くなる1年前(2010年11月)、米朝師匠の自宅を訪問し雪解け。和解の酒を酌み交わしたという。



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