時計は20時の少し前、看護師さんが入ってきた。眠剤を飲む時間だ。不眠症になって14年。眠剤を飲んでしまえばあとはもう眠るのを待つだけなので、一番ホッとする時間でもある。飲み終わって横になり薄い掛け布団を身体に掛けながら明日はどうなるのだろう?という先の見えない不安に駆られるけれど、「この(入院という)選択は間違っていなかった」と自分に言い聞かせて目を閉じる。21時に灯りが消えた事は気が付かなかった。
しばらく本を読んでいたら18時の少し前に夕食が運ばれてきた。昼ごはんから6時間が経つ事になる。待ってる時間は長いけれど食べるのはあっという間。そして膳が下げられるついでに夕食後の歯磨きをする。淡白ではあるけれど、今の自分にとってこの機械的な流れ作業は何も考える事もないので却って有り難かった。そして何より常に「死にたい」感情と背中合わせの毎日を過ごさずに済むかもという安堵感。この感覚は大きかった。
本を手に取り、そっと棚の扉を閉め、更に物音がしないように部屋に戻った。 薄い布団に横になり、少しだけ夜が近付いて暗さを帯びてきた薄暗い部屋でしばらく本を読む。 本の中の住職は優しい口調で私まるでに話しかけるようだった。数日前まで死ぬ事ばかりを考えて、誰の言葉も耳に入らなかった私にゆっくりと説諭する。 ページを捲る度に目を閉じて深く息を吐く。でもまだ自分の心は溶けそうにない。思ったよりもずっと頑なだった。
一通り棚の中を確認したけれど、自分が欲しかった眼鏡もなかったし、メモ帳はあったけれど筆記用具は1つも入っていなかった。もちろんスマホも貴重品も入っていない。しかし救いもあった。それは1冊の本。もし読む事があれば、と何となく思って本屋さんで選んできた何処かのお寺の住職が書いた「生きるのが疲れた時に読みなさい」という中身の本。 何も無いこの場所は自分が先日選ぼうとした死と向き合うのにちょうど良かった。
廊下の各所も防音素材なのか物音ひとつ聴こえなかった。何となく履いていたデッキシューズを脱いで靴下のまま足音を立てないように歩いて廊下に出る。 部屋の向かいにあったキャスター付きの木製ロッカーがあった。上半分は縦長の両開きの扉、真ん中に鍵付きの引き出し、下半分もこちらも両開きの扉が付いていた。 上から順番に開く。両開きにはそれぞれ棚が付いていて、そこにはバッグに入れていた着替えやタオルが並べられていた。
どうやら扉の鍵は医師の判断で最初から掛けられていなかったらしい。 扉の内側には取っ手も何もないし、隔離病棟と言うくらいなんだから、ここからは出られないものだと私が勝手に決めつけて扉に触ろうともしていなかったのだ。 開くと聞けば開けたくなるのが人の常。扉に耳をそばだてて廊下に物音がしていない事を確認して、そっと扉を押してみる。バネの効いた鉄製の扉がキッと言う音を立てて少し開く。 廊下には誰もいなかった。
やってきたのは安達さんではなく女性の看護師さんだった。前もって頭の中で考えていた質問を焦らぬようにゆっくりと聞いていく。 荷物は扉の向こうのロッカーに入れてあります。 眼鏡は医師に確認してみます。 晩ごはんの時間は18時からです。 30分考えた事も1分ちょっとの話で終わってしまったが、それでも少しの疑問でも解決すると何となくホッとする。 しかし、去り際の一言は少し驚かされた。 「部屋の扉は開きますからね。」
一向に来ない看護師さん。何せ人生で初めて押したボタンがどうなるのか全く想像がつかない。まして反応が無いなら尚更だ。 (もしかしたか気が付かなかったのかもしれない。きっとそうに違いない) 気を取り直し、もう一度赤いボタンを(気持ち強めに)押した。 そして再び待つ事5分。 遠くの方で戸の開閉音が聴こえ、足音がこちらに近付いてくる。やがて私の部屋の前で止まり扉がノックされた。 「まつながさん、どうしましたか?」
荷物がどうなっているんだろうか? 眼鏡は返してもらえるんだろうか? 夕食の時間は何時だろうか? 質問を何個か考え、(少しだけ)意を決して(生涯初の)ナースコールの赤いボタンを押した。 暫し待つ。物音しない病室には看護師の足音さえ聴こえない。 更に暫し待つ。 そして15分経ったが看護師は来なかった。 (押し方を間違った?) (それとも何回も押さないとダメなのか?) (これって何回も押していいの?) これは予想外だった。
時計の針は17時を回っていた。 この場所に来て5時間。予定の72時間まであと67時間。まだ10%にも満たない。 誰かと待ち合わせする時もそうだが、昔から待つ事に苦する方ではなかった。割といつまでも待てる質。その辺りの開き直りも既に出来ている。しかし「何もせず」待っているだけなのは少々窮屈でこれは精神衛生上あまりよろしくない。 (せめて本でも読めたらなぁ) 鞄の中に入れておいた本の事を考えていた。
安達さんに「何か今困っている事はありませんか?」と尋ねられたので「ナースコールの押すタイミングが今ひとつわからない」と話す。 「別に、何か気になったらでいいですよ。」 という事らしい。とりあえず喉が渇いたら押しますね、と言うと「はい!」と爽やかに返ってくる。イケメンだった。 話が終わって安達さんが出て行く。温かいお茶と少しの会話。これだけで孤独感が少し薄くなった。少しだけ安心した自分がいた。
1回200文字以内というのは、なかなか中途半端な量で、文章というよりはつぶやきに近い。これはこれで構成が難しい。
お茶を飲み干した後、看護師さんと話をした。 胸には「安達」という名札が付いている。 私「何をしていたらいいんでしょうね?」 安達さん「今は何もしない事が大事です」 私「何もしない事ですか… 」 安達さん「環境が変わって今は落ち着かないかもしれないけれど、まずは休息が第一。まつながさんはその為にここに来たんです」 私「ふん… ちょっとわかる気がします」 安達さん「でもまぁいきなりそんな事言われても戸惑いますよね」
時計は15時半を分過ぎた頃、扉がノックされて男性の看護師さんが入ってきた。手には水筒を持っている。そして優しい声で「まつながさん、喉乾いてませんか?」と声を掛けてくれた。 昼ごはんの後は全く水分を採っていなかったので何となく喉は乾いていた。お願いします、と私が応えると紙コップに8分目くらい注いでくれる。手に取るとそれは温かな番茶だった。一口飲むと温かくなる、と同じくして心も温かくなった気がした。
何も無い部屋にもう一つだけ付いているものがあった。壁に付いた赤い小さなボタン。それはナースコールだった。 白系統に配色された部屋の中では異彩を放つ赤いボタン。そういえば昼ごはんのお膳を下げてもらった時に「何かあったら押して下さいね」と言われた事を思い出した。ただその「何か」がわからない私が体の調子がおかしいわけでもなく、用も無いのに興味本位で押してもいけないそれを押したのは夕方になってからだった。
時計を見ると14時を回ったところでトイレに行きたくなった。とはいえトイレは部屋にあるので好きな時に出来た。 蓋のないステンレス製の便器と便座。JRの車両に付いているトイレに近いな、と感じながら少々冷たい便座に腰を下ろす。用を足し、壁に付いたボタンを押して水を流す。コーッと空気と水が交じるような音がして流れていく。 少しずつ何も無い部屋に馴染んていく自分を感じていた。でもまだ2時間しか過ぎていない。