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シェアすることで気づくこと

スピリチュアルな事について話すお茶会は人生2回目で、テーマは『本当の自分』についてだったと思う。なぜ『思う』という曖昧な表現かというと、これは大筋であってその場の雰囲気で話が変わっていったから。

私の中でのお茶会のイメージは、ベースは1回目の別のスピ系お茶会であり、それに様々なお茶会をテーマにしたブログ記事が加味されている。

~ お茶会イメージ ~
主催者を中心にスタッフ的お仲間がいてその人たちを中心に話は展開していく。参加者は自己紹介と質問くらいしか話をすることはない。
主催者が参加者から出た質問に答えていく。参加者の目的は主催者側(憧れの人)に会いに行くことがメインとなっている。

今回はこのイメージとは少し様子が違っていた。
スピリチュアルなお茶会の主催者と言えば、大抵何かしら能力があったりする先生的立場な人が多いように思う。でも今回はそういった人はアドバイザーとして参加しているだけで、主催者自身も参加者と同じ立ち位置で、色んな悩みや気づきを味わっている最中の方だった。

誰だって悩みや気づきがあった時、誰かとシェアして「アナタはこんな時どうだったの?」と聞きたくなる。でもそれを話せる相手は選ばなければいけない。なぜならスピリチュアルな話は、未だにタブー感があり変な目で見られる、もしくは興味本位で話したくない事まで聞かれることになるからだ。

主催者の思いとしては『この世界の人たちは、本来の自分に気づいて生きていくことが出来ていない。誰もが本来の自分を見失っている。もっと自分に素直に生きていって欲しい。』という思いから、本来の自分を思い出すべく色んな話をシェアして、心の奥にしまった物に気付いていく場を作ること…だったと思う。

『だったと思う』と曖昧なのは失礼かもしれない。だけど私は上記でも書いたように主催者に会いたかっただけ。スタッフ陣に会いたかっただけ。まさか自分の思いや経験を話すなんて思ってもおらず、ただ参加して笑って終わるものだと思っていた。とはいえ本来おしゃべりな私は黙っていることが出来ず、質問くらいはするだろうとは思っていたけど。

今回は少人数での開催。そして主催者も進行役も参加者と同じ学び段階。アドバイザー2人もプロを前面に出したりしない控えめな方達。誰もが参加者の上に立つのではなく、同じ土俵で話を聞き、笑ったり、自分の経験を話したりするので緊張した気持ちがすぐに解けていった。

普段、人と話す事がない私は、要点を纏めて話すのがとても苦手でダラダラと話してしまう。しかも人の話を記憶しておくことが出来ない。なのに誰かが話している間に自分は何を話せばいいのか考えてしまう。

今回のように質問が最初にあって、参加者の話の流れで質問が少しずつ変化していくパターンは、求められている物が何かわからなくなるから少々苦痛だった。それでも特に意味が分からないからと質問されることもなく、私の話を受け入れて貰えたことはとても嬉しかった。

私の悪い所は立場を見失い、過去の自分が経験したことを別の誰かが今経験していると、つい自分の失敗から学んだことを話してしまうこと。そして話した後に「私が言うべきことではない」と反省する。相手は相談しに来ているのではなく、吐き出しに来ているかもしれないのに、お節介にもほどがある。

そんな反省をしつつ今回のお茶会で気づけた私の中の『恐れ』は、他人から付けられたインナーチャイルドの傷が発端となっているのではないかと思った。

・傷つけられたプライド
・差し伸べられなかった救いの手

これは6歳の時に大人につけられた傷。そして今思い返せば幼稚園の時にも大人につけられた傷があった。その結果『他人は私を傷つける』『誰も私を助けてはくれない』という思考が出来上がった。

さて親に付けられた傷なら対処法を見つけることも出来そうだ。けれど他人、しかも大人に付けられた傷はどう向き合えばよいのだろうか。ただ『もう済んだことであり、そんな大人ばかりではない』ということをインナーチャイルドに言い聞かすしかないのか。これが心にあり続けて解決しないから、学生になっても社会人になっても、同じ傷を付ける人が現れて傷はますます深くなっていく。

この対処法はまたゆっくり考えるとして、お茶会で学びがあったかと言われると今のところ分からない。なぜなら皆が同じようなステージで話し合っていたからだろう。視点は違えど『点と点が線になる』『直観に従ってみた結果、今がある』ということを、会の趣旨どうり学ぶのではなくシェアできた。

きっとこのシェアした事が未来世界でまた【点】となって現れ、どこかの【点】と繋がり線となる。その時今回のお茶会が一つの学びだったと思うのかもしれない。

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