私の青春はすべて短歌に置いてきた!

思い出も未来も今も懐に詰めて飛び出せ夏が始まる

中学から高校にかけて、短歌を詠むのが趣味だった。多くの中高生がいわゆる黒歴史ノート(私はそれを全く「黒歴史」とは思わないが)を生産するのと同じように、十代の私は無垢で、向こう見ずで、どこか痛みを伴った短歌をこつこつとノートに記録していた。上記の短歌はそのうちの一首である。

歌の意図がよく分からないのはともかくとして、なんともティーンエイジャーらしい向こう見ずな爽快さがある。読むだけで夏の太陽の眩しさや、積乱雲の立体感を瞬時に思い描くことができる。

このような歌が所狭しと並ぶ私の短歌ノートは、自分の青春の象徴だ。読み返す度に、十代の頃の喜びや絶望が、当時と同じ形を持ってよみがえる。それはさながら、過去の自分と対話しているような感覚だ。

私は、自分の青春をすべて短歌に置いてきた。そんな訳でこれから、自分の短歌を自らの手で紐解きながら、文芸を通じて苦しみや願いを訴え続けていた当時の私を迎えに行こうと思う。

優れねば愛され得ぬと誤訳した世界正しき言葉を探す

学校という場所では、否応なく個人に対して順位が与えられる。自分が他者に対してどれだけ優れているか、それによって自分の価値が左右されると、当時の私は考えてしまっていた。しかし、様々な出会いを経験してゆくうちに、たとえ優れていなくても私には価値があるのだ、という確信を得るに至った。この歌は、その経験から生まれた一首である。

おそらく、私と同じように世界を「誤訳」してしまう人はたくさんいることだろう。そういった人々のために「正しき言葉」を探して表現することは、現在の私の夢の一つでもある。

難しいのは、「正しさ」というものが人によって異なるということだ。私の表現する「正しき言葉」が、他の人にとっても「正しい」とは限らない。しかし、もしも私が「正しき言葉」について一つの解を示すことで、同じような苦しみを抱える人の気持ちが少しでも癒えるならば、私の創作にもきっと意義はあるのだろう。

十代の頃に詠んだこの歌は、今でも創作の道しるべとして私の中に生き続けている。

傷だけが留める二人二人とて油と水の如く揺蕩う

なんともほろ苦い恋愛の歌である。

同じ傷を抱えている者同士でも、本当の意味で理解し合うのは難しい。それはさながら、油と水のような関係だ。

この歌は今読み返しても素直に「良い」と思える数少ない拙作の一つだ。拙いながらも短歌を作り続け、成長していった私の表現の歴史を感じる、痛みの中で生まれた特別な一首である。

剥がれたのはとうに腐れた化けの皮濡れた素顔が乾き始める

爽やかな笑顔の「化けの皮」を被り、どうにか手探りで生きてきた一人の少年。しかしその皮はいつの間にか腐っており、とうとう剥がれてしまう。「化けの皮」の下にある素顔は涙に濡れていて、外の空気に晒され乾き始める。

そんな青春時代の苦悩を描いた一首だが、重々しい内容とは裏腹に、声に出して読んだときに端正ですっきりとした印象を受ける。バーボンウイスキーを炭酸で割って飲んだときのような後味が感じられる、読みごたえのある歌だ。

挫折や葛藤を経て生まれた、青春時代ならではの短歌といえるのではないだろうか。

貴方のとよく似たコートがすれ違い足を速めるクリスマスイブ

読みながら気恥ずかしさに思わずにやりとしてしまう、甘酸っぱい失恋の歌である。

かつての恋人のものと、よく似たコートを着た異性とすれ違い、様々な思い出が脳裏に甦る。なんとなく落ち着かなくなって、気づけば足を速めているクリスマスイブの日。雪の描写はどこにもないのだが、なぜかザッザッと白く染まった道を踏んでゆく音が聴こえてくるようだ。

片想いの歌として解釈することも可能だろう。様々な情景が想像できる良い作品だと思う。

おわりに

青春時代の短歌を読み返すと、中高生の頃の私は、思ったよりも今の自分と似たようなことを考えていることがわかる。結局のところ、私は今でも文芸を続けているし、過去の自分と同じような葛藤を抱えていたりもする。

「黒歴史」という言葉を過度に恐れず、自己を表現してみるものだな、と思う。その価値は大いにある。過去の私が重い悩みや苦しみを「表現」という手段で乗り越えてきたという事実は、「表現者」としての今の私を、強く勇気づけているのだから。

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