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20231128 カップラーメンの私的さ、アラサーの恋愛語り、未来の喪失

知らない人がいる場所でカップラーメンを食べたくないんだけど、昼休みに職場の食堂でふつうに食べている人を見るとなぜ自分はこういう風に食べられないのだろうかと自問自答が始まる。「恥ずかしい」が感情としてはいちばん近い気がする。『カップラーメン』=『私的なもの』という等式が自分の中にはあるのだと思う。


マンガのような恋ができないことはわかるのだが、マンガを読むと自分の恋愛や交際についてあれこれ考えてしまう。自分が誰かと付き合う意欲や想像は乏しいだけで本質的には結構な恋愛脳なんだろうなーと思う。BLばかり読んできた人生だし、百合も男女も話がおもしろければ楽しく読んでいるのでそういう要素自体は好きなんだよね多分。『恋愛脳』という言葉はたぶん青柳美帆子さんのツイートで見てあ〜わかる〜となんとなく思ってからずっと頭の中に残っていた感じ。恋愛というコンテンツが好きで、人同士の関係性を恋愛に結びづけるのが好きな思考という解釈で使っている。

アラサーで恋愛について話すこと、無意識下で恥ずかしいことだと思っていたし他人にもそう思って変に他罰的になっていた節があるので反省。今思うと別にどうでもええやろ感。

夫がいなくなってから自分の恋愛についてそれまでよりも考えを巡らせることが増えたけど、逆に夫がいたから誰かを好きになるとか好かれるとか考えなくても済んでいたということなんだと思う。そして夫の好意に、というか好意を表現してくれることにあぐらをかいていたなあという反省が大いにある。生きている時に指摘はされていたが、結局あぐらをかき続けていた。愛は確かにこの世にあるけど大事なのはその表現の作法だよ、みたいなことを太宰治が言っていた。


身近な人が死ぬということはその人との未来が失われるということなんだなと6、7年前くらいに亡くなった友達のことを思いながら考えていた。当たり前のことだけど。


ありがとうございます。