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【RIDER TIME ジオディケ】その先にあるスタートライン【感想と考察】

 こんにちは。

 たまにこうして趣味の記事もちょこちょこ書いていきたいなと思います。

 今回はTELASA・TTFC限定配信スピンオフ「RIDER TIME 仮面ライダージオウ vs ディケイド/ディケイド vs ジオウ」におけるディケイドの物語を考えるというテーマです。

 僕自身どちらかというとディケイドへの思い入れをトリガーにして今作を観ていたクチなので、その分全話完走した上で思うことがいくつもあったのでこのような趣旨の記事となりました。
 ジオウについても要所では触れていきたいと思いますが、基本スタンスは上記の通りです。なのでどちらかというとジオディケ⊃ディケイド(ジオディケのまとめ)というよりディケイド⊃ジオディケ(ディケイドの物語の中の位置付けとしてのジオディケ)という捉え方になっているかと。

 今作の消化・昇華をしきれていない方(自分含め、ですが)のささやかな一助となれば、という記事ですので、完全に一通り見終えた人向けで書かせていただきますのであらかじめ悪しからず。

 早速行きましょう。

なぜ彼らは「VS」しなければならなかったのか

 まず大枠の話として、今までジオウスピンオフ"RIDER TIME"シリーズは「龍騎」「シノビ」と単発作品でしたが、今回はディケイドとジオウの2タイトルで「VS」でした。
 その意味を整理しておこうと思います。

 今回の二作が「実のところ共通の問題を抱えた連動型ストーリーでした」というのを踏まえた上で一旦シナリオを整理すると、おそらくこういうことになるんだと思います。

いずれオーマジオウになる唯一のソウゴ(=真実のソウゴ)は、力を消耗し時空の狭間に囚われていた。
[ディケイド]
・時空の狭間を抜け出すために、身代わりに置いていく生贄を探すためのデス・ゲームを設ける
[ジオウ]
・全てのソウゴの世界を融合させた学園で、自分を復活させる生贄に相応しいソウゴを選別する

 そして今作に限らず、そもそもジオウという作品自体が、ディケイドなしでは成立しない作品となっています。ディケイドにより持ち込まれ、以降の作品群にも度々適用されてきた「無数に存在する並行世界」という世界観に立脚しているからです(事実、TVシリーズで行われたジオウとレジェンドライダーたちとの接触も、タイムトラベルに見せかけた次元移動でした)。
 で、今回の「ソウゴがいっぱい」もそれと同様、TVと地続きのソウゴと、その他無数にある別の可能性の世界のソウゴたちが、あのたくさんの地球が重なって砕けていくイメージよろしく融合されかけていたのだと思います。

 一方のディケイドも、ジオウの世界は(あくまでも視聴者目線ですが)ひときわ深く干渉していたため、そして何よりディケイドが舞台とする「平成」というカテゴライズの中のラストナンバーであるがために、その旅の区切り目においてジオウの存在や影響は無視できなかったのではないでしょうか。

 いわば、

仮面ライダージオウ:ディケイド編」の目線に立てば、ジオウにも他のレジェンドライダーと同様パラレルな存在がいるはずで、ディケイドを媒介としながら、それらの中で改めてオーマジオウとの決着を描く。

仮面ライダーディケイド:ジオウ編」の目線に立てば、平成最後のライダーであるジオウの事件に巻き込まれる中で、20ライダーの世界という枠組みにおける士の旅の一旦の終わりを描く。

 それが、この作品の意味であり、「ディケイド」と「ジオウ」という名前が並び立たなければならなかった(互いを互いの物語に必要としていた)理由なんじゃないかなあと思います。

 ……ただ正直、二人のライダーのシナリオ自体はTV版でも十分綺麗に(綺麗かどうかはわからんけど)締めくくられてはいたので、今回の話は無理に「正統続編!」「最終章!」などと大仰に捉えず、TVの余白を補填するくらいの位置付けで見た方がファンの精神衛生的にはいいのかもしれませんね。

士の旅の終わりとはどこだったのか

 今回特に僕たちファンの注目を集めたのは「ユウスケ」「コンプリート21」「キバーラやディエンド」「鳴滝」「終わる旅」あたりだったと思います。

 鳴滝は正直、声質とか首周りの老け感からして予告映像の時から「もしや、、、」とは思っていましたが、そのまさか。嬉しかったですね。

 しかし、それ以外のほとんどの要素が、最終的に僕らを裏切る(あえてこう言いますが)方向へ結実していくこととなりました。

・ユウスケと士

 僕は門矢士というキャラクターが大好きですし、『ウィザード特別編』でレジェンド然としたサングラス姿で現れる士も、『仮面ライダー大戦』でライダー集めを達者にやってのける白パンの士も、そして『ジオウ』の世界に干渉してきた闇深めな士も好きですが、その中でも一番好きなのはオリジナルの「ユウスケといる時の士」でした。

 基本的にTV以後の士は「GACKTにめっちゃ影響受けてんな〜(そこがまたいいのだが)」と思っていましたが、そもそもがユウスケとつまらないことで喧嘩したり、ニンジンの譲り合いやウインナーの奪い合いをしたりするお子ちゃまなところも持ち合わせたキャラクターでした。
 それがだんだんああいうダークなキャラクターになっていったのは、もちろん幾多の世界をめぐっての士の成長の末なのだと思いますが、それでも旧知の親友であるユウスケと再会すれば2021年の士もやはり少し2009年当時の無邪気さを取り戻すというか、圧倒的に「ユウスケといる時にしか見れない士」になっていたのが、今作で見られた非常によいシーンの一つでした。

 その上で、僕は今回のユウスケの正体やその顛末については何ら異議はありません。各々色々特殊だった「館」の客人たちというのは、「時空の狭間」という曖昧な場所ならではのユニークであり、ディケイドの「パラレル」をこれでもかと活用したすごくいいアイデアだったなと心から思うからです。そのバリエーションのひとつに「ああなってしまったユウスケ」がいても、それはむしろ然るべき、と思えるわけで。なんならあの爽やかの権化みたいな村井良大さんによる怪演がすごく魅力的でした。

 惜しむらくは、どちらかというとユウスケという存在そのものの扱い
 やはりユウスケは今回も変身出来なかった。どういうわけか「いやそこで変身せえよ!!」という時は絶対に変身しないで当時お馴染みだったので、今回もその線、もしくはワンチャン最後まで変身しないまであるんじゃないかと思っていましたが………。
 結果的にクウガの登場こそあれ、変身シーンはお披露目とならず。小野寺クウガになんの恨みが???とすら嘆いてしまう仕打ちでした。

 そしてもしあの二人が、本当に知り合っているあの頃の士とユウスケだったとしたら、最後はまた一緒に旅をするのか、最初に「久しぶりだな」と言っていたようにまたそれぞれ別の旅へ戻るのか……そんなのが見たかったな、という願望。これは予告公開当時からずっと期待していたことだったので、まあそこまで描く余裕はないかもな、と思ってはいても残念でした。

※同じ理由で、キバーラもディエンドもその登場をあまり喜ぶことができなかったことが残念。ディエンドに関しては、戸谷公人さんはご自身に色々都合があって、当初ほんとは素面でも出るくらいの勢いだったようで…声だけでも入れてくれたことに感謝して、また出てくれることを楽しみに待ってます。
 キバーラに関しては、もしかするとかのMOVIE大戦2010を彷彿とさせたかったのかもしれませんが、彷彿としたところでなんなのか、でもありますしね…単に総力戦をイメージさせたかったのでしょうか。いずれにしても深い意味合いはなさそうです。

 あの頃のユウスケは元気かな。

・鳴滝という男

『仮面ライダー大戦』をきっかけに、きっと鳴滝と士は和解……とまでは言わずとも、確執のなくなった腐れ縁、みたいな感じになったのでしょう。
 崩壊する世界に警鐘を鳴らす存在として様々な場所に現れてきた彼、今ではあのような扱いを受けていたとは。
 そんな鳴滝が講じうる唯一にして最後、最大の切り札が、世界の破壊者ディケイドを呼び寄せることだったんですね。ここはすごく合点がいきました。そんな手を打てる人物は鳴滝をおいて他にないからです。

 しかし、最後に映ったあのしょんぼりとした背中。あの姿に、僕は奥田達士さんの描く鳴滝のすべてがあった気がしました。

 彼はもう、あるいはもとより、世界を漂うことに疲れてしまっていたのかもしれません。
 そんな彼を唯一悦ばせる存在が奇しくもディケイドだったのだとしたらそれもやはり彼ららしいし、そんな鳴滝の寂しさには「お願いだから俺と戦ってくれ」と縋り付く『仮面ライダー1号』の地獄大使の姿さえ重なりました。

 ところが不思議と、あのしょんぼりとした背中はどこか、安堵のようにも僕は見受けられました。
 彼はまた並行世界へ旅に出るでしょうか。それとも——

・えっ???

 コンプリートフォーム21、あたかも元々できるやつみたいに出してきましたけど、おいおい、って感じでしたね……。尺が足りないのなら伸ばしてあげて…。

 ただ、FARのキックで出てきたカードのエフェクトはすごく「パワー」って感じがして良かった。あのキックは何度でも見たいなと思いました。

・終わる旅(?)

 今回井上正大さんはじめ制作サイドからは「ディケイドの旅の終わり」が描かれることが示唆されていました。
 最後ウォズも匂わせていたように、完全なる終わりというよりは一区切り、というくらいのニュアンスなんでしょう。そうだと言ってくれ。あれで終わりはツラすぎる

 この作品をディケイドの旅の終わりたらしめるものがあるとすれば、それは「セイバーライドウォッチ」だと思います。

 なんの脈絡もないあのウォッチがコラボ以外の意味をもって本作に出たのだとすれば、あれを「俺には使えない」ときっぱり言い切った士に、どこかあの万能ライダーの限界のようなものを感じさせられたこと、それくらいだと思います。
 結果的にそれが「7人のジオウ」のソウゴAに渡った時、士の表情からはある種の安堵感というか、解放感のようなものすら伝わってきた気がします。

 僕に言わせればこれは鳴滝の背中と似ていて、彼らにとって旅がある種の縛りのようにもなってしまっていたのではないかと。
 作品を通して、士があの末路を辿る理由がありません(致命傷を追う前から兆候があったため)。だとすると、「平成33年」を謳って始まったこの作品が終わりに近づくことが、そのまま士の旅の終わりが近づくことと同義だったのではないかと。
「平成33年」のお祭り騒ぎ、当初は僕もあんなネット民に迎合してる公式なんか見たくないよ……と思っていましたが、この作品を平成の本当の締めくくりにしたいと思っていたとしたら、それもなんか納得がいかんでもないかなというか。この作品の終わりが平成の終わり、そしてディケイドの終わり、だとしたら。

 士がその運命を知っていたのかなんなのか、安堵感や解放感のルーツはそこにあるのかな、と。

 元号の私物化、などと言われて久しい平成ライダーですが、ちなみにディケイド自体は別にそこまで元号元号してはいませんでした。
 が、ジオウまでのライダーカードを網羅し、しかし昭和ライダーにはなれず(たまになれたりしますが)、令和の世界にも干渉せず(ゼロツーカード頭に乗ってますが)、今の時点まででいえばディケイドはほぼ完全に「平成」というパッケージの中でまとまっていた作品でした。

「そういうことならまあ、ギリ納得いくかな、だいぶ無理あるけど」が今の僕の率直な感想です。

Dear Decade

 最後に。

 数あるディケイド考の中でも、僕は「鳴滝=視聴者の声説」を推しています。

 物語が融合し世界が一つになる危機(オールドヒーローの忘却とパッケージ化、アーカイブ化)を、各世界をめぐり破壊する(リ・イマジネーションにより記号化されたライダーを破壊し原作の物語を視聴者に繋ぎ止める)はずが、仲間にしてしまった(破壊せずその世界の物語を守ってしまった)ことが、渡に言わせれば間違いだった。
 そんな士の旅を妨害し、破壊の警鐘を鳴らしてきた鳴滝は、「破壊」という言葉の意味が渡の意味するそれと異なっているという矛盾があります。
 これはもちろん憶測ですが、渡のいう破壊=リイマジの否定鳴滝のいう破壊=原作の否定、ということだったのかなと。
 ただ最後には渡とその仲間たちによる戦いすらをも破壊と呼んだりしてて、かつ別に止めたがってるでもないので、もうそれはぶっちゃけわかんないですが笑。

 とにかくそうしてディケイドを否定してきた鳴滝の姿勢が、時とともに軟化していったのも、僕らファンの目にディケイドのデザインが見慣れてかっこよく映っていったのと同義なのかな、と思ったり。
 ならば、このタイミングで鳴滝の役目が終わるのにも納得がいきます(鳴滝自体がわけわかんない存在なのでそもそも納得も何もないのですが)。

 そして、士の役目も。

 セイバーウォッチがその比喩になっていたかはわかりませんが、破壊から生まれる創造、は見事なまでにジオウに継承されました。物語性、世界観、そして色使いに至るまで。

 きっとまた士とはどこかでふいに会えると思ってはいますが、今まで士がいた立ち位置にもし誰かがとってかわるのだとしたら、それはやっぱりジオウだな、とも思うので。

***

 ディケイドという存在はいつでも、ゴールではなく、その先にあるスタートラインを見せてくれていた気がします。
 それは、今作も例外ではなく。

 彼の物語はなかなか気持ちのいい終わり方にはならないものばかりでしたが、
 それがむしろ彼の終わらない旅、その源流となるエネルギーのようにも、今となっては見える気がします。

 だから今回も、ディケイドの一端の節目とはなりつつも、完全なるゴールとはならなかった。
 本当のユウスケにも、海東や夏海にも、いつか会えるかもしれないという旅の余白を残して。

 とりあえず、そう思っておくことにします。笑

ヘッダ画像:仮面ライダージオウ公式Twitterより引用

http://twitter.com/toei_rider_ZIO

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