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デザインは、ただ「課題解決」をするだけのものか?

IT 業界では、UX という言葉が流行りに流行りました。そして、今日もその UX というワードは一人歩きしているように思えます。

私たちは、UX を通じて、さらにさまざまなことを知りました。

デザイン思考
カスタマージャーニーマップ
インサイト
ペルソナ
UX ハニカム
予期的、一時的、エピソード的、累積的 UX
定性調査

などなどさまざまなものがあり、これらを巧みに使いこなすことで UX をデザインできます。

そして、私たちはなぜ、これほどまでに難しい UX をデザインしないといけないと考えてきたのでしょうか?

こんなに広範囲に考えなければならないものを、なぜ必死に議論してきたのでしょうか?

それは、

「課題解決をしたいから」

ではないかと思うのです。

そして、これが真実だと思ったがゆえに、私たちには、

「デザインは課題解決をするもの」

という考えが根付いたのではないかと、私は思うわけです。

そもそも、私たちは「課題解決」をしたかったのでしょうか?

デザインで「課題解決」だけしていればよいのでしょうか?

私は、もしかしたら「課題解決」に翻弄されてしまっているのかもしれない…

そんなことをふと思ってしまったので、私なりの考えをつらつらと述べていこうと思います!

「課題解決=便利の追求」という考え

デザイナーは、「ユーザファースト」という言葉を掲げ、様々な「課題解決」をしてきました。

ドナルド・ノーマンの「誰のためのデザイン?」にもあるように、人の認知を科学的に捉え、そこから人々が軽快にシステムとの対話ができるよう、デザイナーはユーザインタフェースデザインを追求してきました。

これはとても正しいことです。ユーザが成し得たいことを実施しようとしたときに、それが使いづらさで成し得なければ、その人の時間と労力を奪うことになります。

しかし、そこを追求しすぎなのでは?と、私は思ってしまったわけです。

ユーザがいかに使いやすく、いかにヒューマンエラーを起こさず、頭の働きをゼロにして使えるデザインを作ることは、確かにユーザファーストであり、ユーザの課題を解決し、そして、ビジネスになります。

そのサービスに訪れ、便利に使いやすく、ストレスフリーなサービスを作るのは、もちろん私も正義だと感じます。

しかし、そこだけを追求し続けるのは正しいのだろうか?という疑問も生まれてきました。

便利から余暇が生まれ、その先は…?

私たちは様々なサービスに囲まれ、大変便利になります。

電子マネーサービスと政府の施策によりキャッシュレス化はさらに進み、
買い物は家で発声するだけで可能になっていき、
サブスクリプションにより文化的なコンテンツがインスタント化し、
手ぶらで家まで気軽に借りられ、
デリバリー業界はいよいよコンビニの商品の配達も始めました。

これはとても便利で、私たちに新たな余暇を生み出してくれます。

しかし私たちは、その生まれた余暇で、何をするんでしたっけ…?

人は学び続ける生き物だと言われています。

それに対して、世の中は便利にし、課題解決をしていく一方です。

サービス提供側は、さらにサービスを良くするために余暇を使えばよいと思います。

しかし、サービスを受ける側の「人としての活動」はどうなってしまうのでしょうか…?

「課題解決」を突き詰めていくことは、本当に「ユーザファースト」になるのでしょうか?

「課題解決のデザイン」よりも広義なデザイン

デザイン思考は、デザイン手法の中でも、広義なデザインをするための手法として位置付けられていると思います。

ユーザの便利な体験をデザインしているので、当然広義だとは思います。

しかし、この広義なデザインも、もうすでに狭義になりつつあるのでは?と、私は思い始めてきました。

先日、大学の友人である、こばりん(@yuyakobari) と飲んできました。

そのときに、インフォグラフィックスとダイアグラムの話になり、そのグラフィックを通して、彼なりのデザインに対する考えを、私に話してくれました。

そのインフォグラフィックスの一例として、中野豪雄さんの作品を紹介してくれました。

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出典:Transitional Topics 2011.3.11–2015.3.11 | NAKANO DESIGN OFFICE

こちらの作品は、「Transitional Topics 2011.3.11-2015.3.11」という作品で「東日本大震災」というワードをベースに、そのほかのワードの関連度、話題性、出現頻度を可視化したインフォグラフィックスです。

この作品の詳しい説明は対談を記事にしたものがあったので、そちらをご覧ください。

このグラフィック、少し見てみるだけでかなり興味深いのです。

グレーの円は「東日本大震災」というワードそのものなのですが、3/11 から 6 日後に、全体の円の中心から一番離れた場所に位置しているので、話題性が一番強い状態になっていることがわかります。
それまでは、この大きな震災の名称が揺れていた記憶が私の中で蘇ってきました。

そして、「東日本大震災」というワードとの関連性は色で表現されていて、赤が関連度が高く、青が関連度が低い状態として表現されています。
円全体を見てみると、3/11 の時点では青いけれど、徐々に緑、黄色となっていき、4/11 の時点ではかなり関連度が高いワードが出現していることがわかります。

上記に貼ったグラフィックの時間幅は1ヶ月ですが、他のグラフィックスを見ると、時間幅が半年、1年、2年、4年と伸びた時間軸もあります。

それらのグラフィックスを見ると、またそこには別の「疑問」や「発見」を、私たちは見出すことができます。

私自身は、このインフォグラフィックス自体を評価できるほどデザインに精通しているわけではありません。

しかし、このグラフィックを通して「知的好奇心」を抱いたのは紛れもなく事実です。

デザインがわからなくとも、このグラフィックを見ることによって、自分の中に主体性が生まれたのは間違いありません。

この状態を、こばりんは、

「見る人とグラフィックが対話する」

と言っていました。

そして、このようなデザインを、こばりんは、

「問題提起のデザイン」

と言っていました。

このグラフィックには、私たちが主体的に思考を巡らせ、理解し、議論したくなり、そして伝えたくなる「可能性」をデザインしていると私は思いました。

このグラフィックは、データをデザインして情報にし、データだけでは解釈しづらいという課題を解決しています。

しかし、さらにそこから人々が主体的になれるように「問題提起」をすることで、私たちに主体性をもたらし、自ら思考を巡らすところまでデザインされています。

このことから、課題だけを解決するのではなく、さらにその先の人々の活動もデザインすることはできるのだと気づき始めました。

「学びのデザイン」から学ぶ広義なデザイン

さて、話は代わり、以前私は以下のような記事を書きました。

こちらは、中学数学の教師をしている友人と飲んだときに感銘を受けた話です。

詳しくは上記の記事を読んでいただきたいのですが、課題解決より広義なデザインを考えていったときに、またしても、彼の話が私の中で思い浮かんだのです。

彼は、ただ教科書の内容を教えているわけではありません。

「生徒ファースト」な考えに則り、「生徒が主体的に学ぶ環境のデザイン」に対して、日々熟考し、授業をデザインしています。

これは、彼が作り出した y=ax^2 の変域を理解するための教材です。

この教材は、あえてインタラクションを活用してユーザの動作を即時でフィードバックできる仕組みにし、動的に理解しなければならない変域を理解しやすくなるように補助しています。

これは「教材デザイン」を通じて、生徒が変域を理解しにくいという課題を解決しています。

しかし、「授業デザイン」というところまで視野を広げると、生徒に主体性をもたらし、自ら思考を巡らすところまでデザインされています。

彼は、生徒が関心を持ち、生徒がより知りたいと思い、生徒が持つ仮説を試行錯誤できるような環境を作り出そうとしています。

だから、生徒の思考を妨げそうな箇所を「教材デザイン」で解決したのです。

その教材は、あくまでも「デザインの一部」です。

彼は、授業全体をデザインして「学びのデザイン」をしていました。

生徒が、自分自身でいかに主体的に学びたくなるかを追い求めていました。

この「学びのデザイン」が「広義のデザイン」です。

私は、つっちーの「学びのデザイン」を思い返しているときに、こばりんの言う「問題提起のデザイン」と共通しているところがあると感じました。

それは、どちらも

「考える余白のデザイン」

をしているという点です。

「考える余白のデザイン」とは?

今回お話した「問題提起のデザイン」も「学びのデザイン」も、それらのデザインの受け手が受け取るだけで留まっていないというのがミソです。

人は、知識を通して、自らさらなる考えを生み出したり、理解したり、次なる疑問を生むことで、より高次な考えへ進むことができます。

「問題提起のデザイン」も「学びのデザイン」も、そのデザインを通して人々が何を思い、考え、そしてどのように理解するかまでは、デザインの受け手に委ねられているのです。

これを私は「考える余白」と表現したいと思います。

何を思い、どう考え、どう理解するかは、デザイナーはコントロールしないのです。

この「考える余白」までデザインすることこそが、デザイナーがデザインすべきことなのではないか?と私は思うわけです。

私たちは「考える余白」をデザインできるのか?

今までの話を考えると、相当ハイスペックな人で、より達観した人でないとできなさそうな印象を受けます。

みなさんはできそうだなと思いますか?

私は、人である以上、誰にでもできるのではないかと思うのです。

上のタイトルを見て、みなさんは、「私にもできるのか…?」と少し考えていただけましたか?

もし、考えていただけたのであれば、その時点で、私の「考える余白のデザイン」は成功したのだと思います。

私は今回「こばりん」の話と「つっちー」の話の2つを紹介しました。

この2つの話を受けたことで、私の中で「考える余白」が生まれ、自分なりの解釈をし、さらにこうして記事にしています。

どんな事柄も、きっと何かしらの共通点があり、それを自分の思考で見いだすことができれば、それは新たな「発見」であり、そして、それが新たな「問い」を生むのだと思います。

私は、より多くの人に「考える余白」をデザインしてみたく、今回、このような記事を書いてみました。

デザインの先の人々を「信頼」するということ

私たちはデザインをしていく中で、つい、すべてをコントロールしたくなってしまいます。

「こうデザインすれば、ユーザが使いやすい。」

と考えてデザインをするのですが、

「ユーザが使いづらいと言うのは、ユーザが期待通りの動きをしないからだ。」

というふうに考えてしまうこともあります。

それは、「ユーザが思考し、ユーザが主体的に行動する」ということを考慮しきれていないまま、デザインしているからだと思います。

もし、私たちがそう考えてしまっているときは、私たちはユーザを信頼しきれていないのだと思います。

私たちが出したソリューションは、あくまでもユーザへの寄り添いです。

寄り添った先、ユーザがどう行動するかはわからないのです。

私たちは、ユーザがより主体的に、楽しく、ポジティブになれるようにしたいだけであって、私たちが期待するような動きをしてほしいわけではありません。

下手をしたら、それはユーザを支配することになってしまうかもしれません。

私たち人間は、各々自分の意思を持って主体的に行動をしたいという、基本的な欲求を忘れてはいけないのです。

「考える余白」をデザインするということは、人の「可能性」を引き出すことだと思います。

そして、その「余白」で世の人々は何をするのか、それを私たちは「信頼」しなければならないのです。

自分の意志を貫き通したくなることはとても多いです。

しかし、この民主主義の世の中で人々を信頼しないのは、そもそも民主主義を減退しているのかもしれません。

これは、自分に対しての言い聞かせでもあります。

より良いものづくりを、みんなで真剣に行っていきたいものですね!

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