見出し画像

“差別”は意外にも身近に。

「差別はよくないよ」

よく聞く言葉。私は正直、この言葉が苦手。


差別したいとかではない。ただ「本当に差別しないで生きてる?」と思ってしまうから。

見た目、身につけているもの、考え方…些細なことでも、少しでも相手と違えば「私とあなたは違う」と思われ、差別の対象になる。

それと同時に「“同じ”にしないといけない」と自分が思っていることこそが、自分に対しても、周りに対しても、差別になっているのではないかな。ありきたりな考え方かもしれないけど。

「相手と同じにしないと。」と思っているということは、自分を周りと差別しているし、相手を自分とは違うと考えているということ。



これを実感したのは、つい数日前のこと。

私の知り合い(ここではAさんと呼ぼうかな)は、近所に障がいを持つ親戚(Bさん)がいる。Aさんは定年後なので仕事をしていなくて、Bさんの両親は、共働き。

(ここまでで、すでに想像できる方もいるかも…?)

Bさんは1人で外出できないので、ことごとく、Aさんの家に預けられている。でも、私はAさんが送り迎えなどが嫌がっているということも知っているし、ストレスを溜めていることも伝わってくる。

Aさんは「障害があるからできることも限られているし、どこにもいけないのだから仕方ない」と。

本当にそう?勝手に「Bさんは1人じゃ何もできないから」と決めつけているだけなんじゃない?実際、手伝わなくてもできることはたくさんあるし、Bさんが自分からやろうとしていることもある。

それを勝手に制限して、否定して、可能性を潰しているのは、周囲の人なんじゃない?だから、Bさんも自分からやろうとしなくなってない?


確かに、障害があると、障害がない人に比べて1人でできることは限られている。それは、当然のこと。例えば、足に障害がある方は、道具も何も使わずに、自由に自分の足を使って走り回ることはできない。

でも、例えば義足を使えば?車椅子に乗れば?もちろん、車椅子が通りにくい場所やサポートが必要なこともある。それでも、道具を使わないときに比べて、自由に活動できる程度は変わる。

それを「足に障害があるから何もできないね」と言うだろうか?冷静に考えて、それこそが差別じゃないかな。

本人が使いたい道具・本人に合っている道具を使って、できることを増やすという工夫をする。

それは、誰にでもある“苦手”と似ている概念だと思っている。苦手なことでも、工夫すれば、全くできないわけではない。得意な人と比べてしまえば、完成度は低いかもしれないけど、できたことには変わりない。



回りくどくなってしまったけれど、つまり無意識に「○○と××は違うから」と自ら周りと差別しているかもしれないということ。

そしてそれが正しいものだと思って、本人の可能性を潰してしまうことにつながる。

先ほどの足の障害の話のように、例を出せばわかる。なのに、当事者になるとわからなくなってしまうのが、恐ろしい。


なんの面白みもない結論になってしまうかもしれないけど、何かをやるときは自分がやることに対して「本当に?」って問いかける時間が必要だと思う。

自分だけで不安なことなら、周りの人や詳しい人に聞いてみるのもいいと思う。

勝手に結論を出して、様々な可能性を潰してしまうかもしれないのなら、少し時間をかけすぎてでも、本当に当人のためになることを考えるようにしたい。

楽なことをするのではなく、当人のために、何ができるか。



“当人”が自分自身でも、他の人であっても。


自分の行動が「本当は誰のためになっているのか」を考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?