文化の盗用をしないために—ご都合主義を乗り越えろ
ドラマ「デフ・ヴォイス」が終わり、祭りのあと。いろいろ思うところはあるが、気を取り直して、「文化の盗用」でなく「社会問題の提起」を選んでくれたNHKドラマ制作陣に感謝したい。そして、手話指導の米内山陽子さん(コーダ)のnoteがとてもよくて。もう何回も読んでいる・
舞台のひとつとなっている手話通訳学科の社会学の先生としては、ある程度この「文化の盗用」については授業のネタ帳がある(私は社会学者じゃなく言語学者のはずなんだが…)
「当事者による表象」への道については、IGBの伊藤さんが書いているのでそちらを読んで欲しい。
「文化の盗用」ってなんだ?
過去何回か「ご都合主義の改変」というキーワードを出しているが、これは「文化の盗用」の要素だ。ざっくりWikipediaから定義を引用しておこう。
Wikipediaには植民地主義の一形態とあり、「支配的な文化のメンバー」が不正に「少数派の文化を取り入れる」というところが肝だ。簡単に言えば「おまえのものはオレのもの」。つまりジャイアンだ。
ジャイアンは聴者=マジョリティで、のび太がろう者で、奪われるものが手話だ。とりあえず以下学生用の説明を書いたので、文化の盗用について詳しい人は「搾取されるものってなんだ?」までジャンプして欲しい。
KIMONOの意味変化
「文化」は著作権が発生するものだけでなく、「言語」とか「行動規範」とか「技術」多岐にわたる。矮小化というキーワードがあるけど、ざっくりいえば「大事に思っているものをテキトーに扱われる」ということだ。手話を大衆受けする物語の小道具にするのは、「文化の盗用」にあたるだろう。
ファッションの例からはじめよう。キム・カーダシアンという人(インフルエンサー)がKIMONOという名前で補整下着を売り出したときに、京都市長まで抗議文を出すという事態に発展したことは、記憶に新しい。
その背景として知っておきたいのは、欧米人は、kimonoを、オリエンタルな柄のガウンとしてお土産に買って帰り、寝室で着ていたりすることだ。ペラペラのサテン地の和柄の着物風の衣装を土産屋で売っているのを見たことがある人は多いのではないだろうか。これ、日本人向けに売ってるわけではなさそう。
どうも欧米では、kimonoという名前で、そういう「オリエンタルな柄のガウン」から「オリエンタルな柄」が取れて、「下着の上に一枚羽織る部屋着」みたいなものを売っていたりする。そこから「羽織り」が取れて「下着」にジャンプしてしまったのがキム・カーダシアンの補正下着だ。別に「きもの」が突然下着になったわけではない。しかし一方で、元ネタの「きもの」を大事に思っている日本人、京都人は、「まてまて、その語の意味は本来これなのに、『補整下着』で定着するのはさすがに許せぬ!」となる。商標登録されることが特に争点となっていた。
kimonoが「補整下着」の意味が主になったら大変だ。「日本人はkimonoを着ています」でイメージされるものははんなり和風美人だったはずが「日本人は補整下着を〜」じゃ伝統文化は真っ青だ。
だけど、この意味変化の起点あったkimonoのお土産としてのニーズを見いだした商売人は、多分それを売るのをやめない。その商売人は必ずしも外国人とは限らない。(調べてみるとどうもkimonoをお土産として売り渡していたのはもうずいぶん昔からの話のようだよ)そもそも、お土産として売るのは悪いことか?
同様に、手話をコミュニティ外に「お土産」として売る人たちがいる。つまり、「お金を持っているマジョリティ」に、本来の文化と違う形で「売る」=提示することによって、「儲かる」という話だ。手話歌だったりドラマの小道具としてだったり、ただ手話を教えることだったり。それが「手話」文化の所有者のはずの「ろう者」の望まない形で展開されていれば、それを文化の不正な適用(inappropriation)、「盗用」ということばで指す。とはいえ、「どこから」が不正な適用になっていくのかの線引きは難しい。家の中で勝手にお土産のkimonoを着ているのは親日家のふるまいに見えるし、着物好きが高じて日本で着物生活している非日本人とか、素敵だと思う。
実際のところ、その「集団的な利益」「将来的な見通し」みたいなことを考えたとき、「盗用」だと判断できる人は多くない。個人として手話を「お土産として売る」ことで、「儲かる」——金銭的にだけでなく、目の前の人が喜ぶから良かった!となることも含む——ことを、なかなか止められるものではない。京都市長は、補整下着にまで展開してしまっていれば訴えを起こせるけど、お土産のペラペラのkimonoを売ってる日本の業者は訴えられない。だから「当事者が良いって言うんだからなんでもいいじゃん」っていうわけでもない。
ハートネットTVドラマ「デフ・ヴォイス」舞台裏に密着」 で手話指導を担当した江副悟史さんが「ろうの役者が活躍する未来のために」と言っていた。彼は、Silentにも出演している。「ろう役者が聴者の作る映像作品でも演技をできる」ことを見せるという布石を敷いてきた本人である。だから、外に向かって、多少不満が残る形でも発信していく(お土産を渡していく)ことが悪いことだと言っているわけではない。文化の盗用なんて騒ぎ立てすぎだ、寿司を外国人が握ったら不服か?という話には賛否両論あるだろう。
「紅茶の本場」はなぜイギリスか
もうひとつ別の例で考えよう。
私が最近、Amazonで「インドの業者から直接紅茶が買えるようになっている」ことを喜んでいるのは、そもそも「紅茶の本場イギリス」では茶の木を栽培していないからだ。
社会で「茶栽培の北限」がある、つまり「日本の中でもお茶は温かいところでしか育たない」と学んだ。イギリスは北海道より北に位置する国だ。世界史を学ぶと、大航海時代に「東インド会社」の活躍が出てくる。そう、「紅茶の本場イギリス」は植民地支配の結実だったのだ。紅茶の名前でよく見る「ダージリン」「アッサム」はイギリスの植民地だったインドの地名だ。それを知っても、未だにインドからではなくイギリスの会社から紅茶を買ってしまう。
つまり貿易会社は儲かっている(日本の貿易会社、丸紅とか伊藤忠とか高給で代表的な企業だ)。現地のものを安く買えても、間に何かしらの「価値」を決めて消費者に売る。この「お金を持っている消費者」と「消費者に直接届かない生産者」の不均衡を生み出すことによって「儲けている」人がいるということだ。
もちろん「貿易会社」が世界の巨悪というわけではない。世界中で、売れそうなものを探し、販売先にあわせて新たな価値をつけて売る。現地の人にも外貨が渡るし、文化を紹介できる。悪い話ではないはずだ。
しかしそこには、権力の勾配がある。「資源を供給する(させられる)」側と、それを「解釈し直し新たな意味をつける」側だ。紅茶の本場イギリス…? 権力の勾配がなければただの国際交流なのだが、「買う側」と「供給する側」は非対称的だ。ジャイアン的な「おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のもの」の体制だ。この時代になっても、インド産の紅茶をなぜかイギリス経由で買うことが多い。(サイードの「オリエンタリズム」もこういう話だった。——1995年に「ろう文化宣言」が最初に載った青土社の雑誌「現代思想」は「サイード」特集号だったのは、必然的だ。)
マイノリティの文化(手話)をマジョリティの人(聴者)が「私たちがうまく活用してやっているのよ」「私たちのおかげで、あなたの文化の価値が高まってよかったじゃないの」というのが「文化の盗用」の典型例であることは覚えておこう。
「文化の盗用」をしないためには、当事者から「直接」買う、直接使い方を教えてもらうというのがポイントになる。
そして、「自分たちのアイデンティティを自分たちで決めるために」、勝手に外から意味づけされないために発信されたのが一連の「ろう文化」に関する活動だ。その旗手が冴島素子こと木村晴美先生だ。冴島役の河合依子さん、大役である。すごい微笑んでいた印象が残った。
搾取されるものってなんだ?
「インドから貿易会社経由でイギリスで買われたものを貿易会社経由で日本で買う」とマージンをやたら払って、自分は超高級紅茶を買って楽しんでいるつもりで、インドの茶農家を搾取していることがありうる。
これと同様に、私たちは手話の現地(マイノリティのコミュニティ)のことをひとつも知らずに、貿易会社(テレビドラマ制作者)経由で作られた手話の物語を、見て楽しんで何かわかった「つもりで」手話コミュニティから何かを搾取しているかもしれない。手話歌、聴者による手話教育。本来、手話コミュニティが得られるはずだった利益も「貿易会社にマージンとしてほとんどすべて」取り上げられてしまう。
では、手話のメディア露出というテーマにおいて「マージンとして搾取されているもの」と「本来得られるはずだった利益」ってなんだろう?
手話がメディアで扱われても、ろう者には「得られるはずだった利益」は手に入らず、「手話」は文脈から切り離されて搾取され、さらには「自分たちの不利益になるイメージ」まで押しつけられることもある——「手話を使ってる人は孤独でかわいそう」「毎日コミュニケーションがうまくいかないけどがんばってる」——たのしく生活している人も大勢いるのに? その一方で、本当に問題視しなければならないことへの理解も広まらない。
だから当事者の関与は重要だ。中間マージンを取ろうとする人を減らし、当事者が本来得られるはずだった利益が渡るようにするのが大事だ。当事者以外の人がいてもいいが、意思の決定権は当事者が持っている必要があると思う。
当事者による表象への道
まずはこの動画、見て欲しい。
ろう者の東大院生牧野さんの映像編集技術とセンスに圧倒されてしまうのだけど、どうもアメリカでは「当事者による表象」が目下努力されているらしいことが伝わってくる。
そもそも、"Nothing about us without us"というのが国連障害者の権利条約のスローガンだった。当事者は自分たちのことは自分たちで、決める権利がある。これは、人種差別の背景のあるアメリカのほうが、何歩も進んでいる領域だろう。アメリカから何を学ぶか。この翻訳を見よう。感動とか高潔とか、「感動ポルノ」にしないために何をすればいいか書いてある。
マイノリティにもエンタメを
「本来得られるはずだった利益」は「自分たちの世間からの見られ方をコントロールする」ことかもしれない。参考になる「当事者の意見」をひとつ紹介する。ちょっと前の記事だが、私もお世話になっているろう者の映像監督今井ミカさんのインタビュー。
ここから、最近のディズニーの映画「マーメイド」が黒人で演じられた話が繋がる。
そもそも、アメリカの映画産業は当初白人のためのエンターテイメントだったので、「黒人のプリンセスなんてナンセンス」みたいな刷り込みがある。今までこうだったのに、突然なんで? みたいなのもある。「ポリコレがすぎる」とか言う人もいる。
しかし、その「刷り込み」のせいで、出演機会を奪われてきた黒人俳優がいたり(この作品では歌唱力で選ばれたと書いてある)、子どもの頃から自分の属性に近い人のポジティブな映像作品が見られず、「自分はプリンセス側の人間じゃない」とすり込まれてきたのがマイノリティなのである。そして、何かしらのステレオタイプ的な役割を押しつけられるときだけ、画面に現れる存在だった。
——ろう・難聴者のなかには子どもの頃「大人になったら聞こえるようになる」「大人になったら死ぬ」と思っていたという人がいる。大人の聞こえない人を見たことがなかったからだ。
ディズニーはこれを変えようと、「黒人のプリンセス」とか「アジア人のプリンセス」とか、工夫している。(なぜ日本人が白人のプリンセスだったらよくて黒人は嫌なのか、ポカホンタスをあまり歓迎しないのはとりあえず置いておこう)マーベルのヒーローの中に補聴器をつけたホークアイが登場し、その中に本物のろう者が演じる「ろう者」マヤが出ているのもこの動きのひとつ。
今井さんはこれと同じようなことを言う。ろう者は自分の言語である手話でエンターテイメントを楽しめる機会が少ないし、手話で育つ子どももそうだ。これではポジティブな自己イメージを形成できない。
だから、ろう者や難聴者が本来得られるはずだった「利益」は「演者として画面に出る機会」とか、「ろう者が画面に出ることにより、ろう・難聴の子どもたちに見せられるはずだったポジティブな当事者イメージ」というのが妥当だろう。何でそれを孤独のシンボルにされなければならないのか? 粘着気味にあのドラマを引き合いに出す理由はこの憤りだ。
社会問題を問う——社会派ドラマとしての「デフ・ヴォイス」
じゃあ、「デフ・ヴォイス」でろう・難聴者が扱われることによって、手話コミュニティが得られるのは、なんだろう? これは、「ろう者・難聴者にまつわる問題を世に問う機会」である。
これまでの定型的な手話のドラマって、手話を使う登場人物が出てきても、現実にある問題ではなく、聴者社会での「孤独」とか「上手く言葉が通じないもどかしさ」のアナロジーとしての役割を担っているばかりだった。まあ、局所的にそういうことがあるのは仕方ないかもしれない。
でも最近、「手話ってほら、最近流行ってるし特に問題になってないと思ってたよ」って言われた。うそでしょー! 問題が解決されたからエンタメ化されたと思う人がいるらしい。いつの間に手話の扱いって、「みんなが全く知らない世界〜」から、「みんな知ってるから大丈夫」に移行したのか。どうしてこうなった? こういうことも弊害だ。全然そんなステータスではない。だからこそ「デフ・ヴォイス」は現代にも続く問題を描いている。
NHKドラマ「デフ・ヴォイス」で描かれた問題を整理しよう。
子どもコーダの通訳問題
2つ前のnoteに書いたように、手話通訳者の法的な立場も曖昧なままなせいで、子どもコーダが医療機関や行政機関で大人のために通訳をすることもまだまだ現実のひとつだ。「親がさせている」のではない。公的な制度がない/貧弱なために、周りの大人がさせるのだ。聞こえない子が生まれるのが怖いコーダ荒井
荒井は手話ができるから、聞こえない子とのコミュニケーションは取れるのだが、世間ではまだまだ聞こえない子を十分に受け入れる体制がないと彼が判断している。優生保護法は過去のもののになったが(ドラマで出てくるだろうか?)優生思想はまだまだ根強いかもしれない。2016年に起きた相模原やまゆり園事件はその現在的な形のひとつ。益岡さんにとって「まるで外国語」の日本語対応手話の通訳ばっかり
「日本手話」での手話通訳養成がちゃんとなされているところが少ない現実。手話に対する世間の無理解
荒井が席を立って何やら言い返したようだが「大丈夫どうせ聞こえないから」って悪口言ってもいいような態度の大人は、まだまだいる。手話はおもちゃじゃない。聞こえない人、聞こえにくい人にとって、「人間」として生きるために重要なものだ。他者に伝わる/抽象概念が扱えることばをほとんど持たない菅原さん
過去の話ではない。今も教育システムのはざまにいる。私は「少なくともひとつ、十全に言語を身に付ける権利」について共著論文を2020年に出している。今もそれが守られていない現実がある。弁護士にまでなったのに親に「これで耳さえ聞こえていれば」と言われる
音声/聴覚至上主義(オーディズム)というもので、健常者社会が自分の社会を基準に気の毒な人を認定する。障害を持つ当事者が自己決定権を持つのを妨げる価値観にもなっている。医療機関への受診が遅れる・知識不足
そもそも日本語が第二言語で、健康情報へのアクセスも弱く、医療的な知識が足りない。そのうえ、通訳手配が大変なので、医療機関への受診が遅れる人がいる。医師に通訳への理解や使い方の知識が必ずあるわけでもない。子どもに通訳させたりもする(原作では筆談してみたけど先生が悪筆過ぎて荒井少年が通訳した)優生思想と優生保護法
床屋だった益岡老人には妻はいたが子どもはいなかった。妻は優生保護法による手術で子どもが産めない体にされていた。こういうことは合法だった。口話訓練
聴覚障害がある子どもを聞こえる社会に完全に適応させるために、マンツーマンで指導を行う。指導は密室で行われることがあり、虐待の温床になっていることが示唆される。今回は事件の背景になったが、母親と子どもの密室の関係も心配といえば心配。証言を軽く扱われていた手話社会の住人たち
知的に劣ると思われてきた。これは上手な手話通訳がいなかったこともある。手話通訳を通すまでもなく、コミュニケーションする必要もないと思われているのかもしれない。
厳しい現実に「耳が聞こえないとあんな感じになってしまうんだ」と菅原さんエピソードを見た人もいるかもしれない。しかしそれらは社会の構造によるものだ。それが、「デフ・ヴォイス」シリーズにはちゃんと書いてある。(小説の方が説明が多い。読もう。)
これらの問題は、必ずしも常に当事者だけが発信すべきだろうか。そもそも、菅原さんのような人は「語れることばを持っていない」。だからこそ小説は力を発揮する。そして映像も。益岡さんと違って「ただの本物」を連れてきても、画面の中で見せる演技はできない。だからベテラン俳優でもある那須英彰さん(ろう者)がこの役を引き受けたのだろう。那須さんは実際に「菅原さんのような不就学ろう者」を知っていて、それを参考に演技を組み立てたというのだから、リアリティが違う。彼の身体が語る悲哀は「現実の菅原さん」の声を届ける役割を果たしている。(よく考えて欲しい。彼に用意された帰結は「母亡き後」を思うとハッピーエンドではない)
この問題を指摘する丸山先生も、ドラマの制作陣も、私のような研究者も、そして役者たちも、広義の「通訳者」だ。つまり聴者社会とろう者社会のコミュニケーションを「つなぐ」人という意味で。それはある意味で「貿易会社」なのだけれど。
その素材を取り上げてしまった以上、現地にちゃんと恩恵があるようにしていく義務があるのかもしれない。そして、「ろう者難聴者の役は、その当事者で」とNHKに交渉した丸山先生は、その義務を果たしている。
映像化されることにより、問題を知る人が増える。そうすれば「当事者」にも利益がある。当事者が表現する権利も守った。この当事者にまつわる問題を扱う小説の、主な登場人物の多くが、ろう者やコーダや難聴者で、当事者俳優を大量に起用してドラマができあがったことは、画期的なことだ。NHKの企画を通した人、手話関係者、現場のスタッフに至るまで、この物語をつなぐリレーランナーでもある。
「デフ・ヴォイス」は、丸山正樹が「ろう文化」に関する記述をご都合主義で改変せず、マイノリティの置かれる社会的な問題を問うように書いた小説で、「文化の盗用」にあたらないだろう。ただし私も当事者ではないので、もちろん、最終的な判断は当事者コミュニティのものだ。
この小説の「元ネタ」をたくさん書いている(そして当初丸山先生は断りもなくそれを使って物語を書いた)木村晴美先生の公式見解はこれみたいです。よかった。
おわりに
私がこの情報を一生懸命まとめている理由はなんなのか? 「丸山さんは敵? 味方?———戦友!」と言いたくなる理由がこれだからだ。ろう者コミュニティの中の問題に取り組むとき、私たちは当事者にはなれない。研究をしていていつも悩む。「代弁者」にならないか? 「文化の盗用」をしていないか? 私の立場でこのプロジェクトを回して良いのか?
しかし、知ってしまったからにはなにもせずにはいられない。自分ができることをしたい。「コーダ」も手話通訳者もまた、「あいだにいる人」である。私は「デフ・ヴォイス」を通して、丸山さんに感情移入する。もちろんそこには「コーダ」の物語があるのだけれども、みな媒介者としての使命を果たしている、というところに着目してしまうのだ。
初夏、初対面の外国の研究者とのミーティングで、今のプロジェクトに必要な細かい実際的な情報を聞いていると不意打ちでこの質問がきた。
「あなたの研究の動機はなに?」
——人権の問題
口からそれがすっと出て、なにか吹っ切れた気がした。東京の難聴者を代表する立場になることが多いICUcoさんがこう言う。
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