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デフ・ヴォイス(3):いじけんぼ荒井とエスノグラフィー準拠のストーリー展開

去年流行した手話を扱ったドラマのご都合主義が目につく、という話を今年の正月に書いていた。誰のための「障害者の表象」なのか、読み解いていくと「孤独のアイコンとしての手話」と「業界関係者へのアピール」に見えてちょっとなーと。じゃあ「デフ・ヴォイス」はそれとどう違うのよ? というのを書いてみよう。

丸山正樹の謎

「デフ・ヴォイス」の原作者の丸山正樹さんは、一体どうしてこんな小説が書けたのだろう? という「謎」からはじめよう。ちなみに彼は、コーダやろう者ではなく、この小説を書いた時点では、手話ができたわけでもなかった、という驚きの事実がある。

まずもってコーダの荒井のキャラクター設定がやたらいじけている。「できる子なのにいじけている」。

丸山氏は、なぜ荒井というやたら「いじけた」主人公を描くことになったのだろう? と思っていたら、ご本人も後がなく、荒井みたいな状況(できる仕事が限られているので、「できる」仕事として小説を書くことにした)だったようだ。

このような裏話が語られている国立障害者リハビリテーションセンターの特別講演は27日までの限定公開なのでまだの人は急いで見て欲しい。


丸山さん、シナリオライターとしての技術はあった。そして、後に出版された「ワンダフル・ライフ」で、フィクションとはいうものの、かなり彼自身の現状に近いお話を書いている。つまり、彼は、デビュー作の「デフ・ヴォイス」を書いているとき、「障害者の妻」の介護をしながら「自分にしかできない仕事」としての小説に取り組んでいた。

彼の「障害をもつ家族のケアをする人」という当事者性が、フィクションを織り上げるに当たり「ご都合主義の改変」をしない方向に働き、このような物語を書くことになったということだろうか。家族のケアをするという役割を生まれながらに運命づけられてしまったコーダ。お礼を言わない家族。この辺は、「ワンダフル・ライフ」を読むとそれぞれの由来がなんとなくわかる(ので是非読んで欲しい)。

国リハ講演で、丸山先生は何かに怒っていたそのままで「デフ・ヴォイス」は書かれているとおっしゃっていた。それはざっくり言えば「マイノリティのマジョリティ社会への怒り」だろうか。それとも「できるのにできない自分への憤り」だろうか。それが、いじけんぼ荒井の人物描写を妙なリアリティで描く原動力だったことが示唆されている。

ドラマ放映の前に「荒井はちゃんといじけているのか」と私は気にしていた。放映中に、12年待機組のOさんから「荒井、ちゃんといじけてるね!」とメッセージが来るほどだった。草彅剛さん、12年分の期待を受け止めてくれる、すばらしい演技だ。

エスノグラフィーとストーリーテリングの技法の掛け合わせ

私は、ろう者の森壮也先生と一緒に早稲田大学で「手話の社会言語学」という授業を開講しているが、小説「デフ・ヴォイス」を教科書として採用している。これを読んでから授業を受けると理解が深まるだろうと考えてのことだ。「ろう者コミュニティの言語習得の多様さが、どのようであり、どんなトラブルを招きうるか」について、初学者でも読みやすい1冊の本で、かなりの割合がカバーされているものが、他になかなかないからでもある。(亀井先生のこの本も良いです。(Silentで主人公の妹が参考文献として誰かに渡していた))

「デフ・ヴォイス」はよくよく読んでみると、この小説は、「ろう文化宣言」以降、木村晴美先生が書いてきた「ろう文化」に関するエスノグラフィーに準拠している模様。特にこれかな?

2000年の「ろう文化」も。(ちなみにこれは1996年の「現代思想増刊号」を書籍として売っているものだ。1996年版が手に入らないといって嘆かなくてもこれはほぼそのままの書籍)

手話研究者である私の把握している範囲において、これらを元ネタに、ミステリー仕立てにしたのが「デフ・ヴォイス」であるといえる。実際、本の後書きに「木村晴美氏に強い影響を受けている」とある。強い影響というか、彼女の書いた「エスノグラフィー」としての「日本手話とろう文化」などに多くのエピソードの「種」を見いだすことができる。それにご都合主義の味付けをするのではなく、その言わんとするメッセージをできるだけゆがめずモチーフとして取り込むところがすごいところなのだ。社会問題に向き合う勇気、というか。

そういうわけで、ドラマの手話監修に木村晴美先生が入るのは当然の流れだ。小説・ドラマでは、彼女は「冴島素子」というゴッドマザーみたいな役柄で登場する。小説では、所沢にあるリハセンターの手話通訳学科の女性教官で、「ろう文化宣言」の著者その人と、「そのまま」の設定だ。出版後、丸山氏はさすがに手話を学ばざるを得なくなり、木村先生本人にも会うことになったという。

そういうわけで、だいたいの元ネタは、私が研究のために読んできた「ろう文化」周りの書籍に書かれているので、丸山さんは「仲間? 敵?」「うーん戦友!」みたいな気持ちになる次第だ。

どこまでご都合主義の改変をしないで行けるかの”チキンレース”

丸山正樹という作家の手法は、「ご都合主義の改変をしない」ポリシーによって貫かれているように見える。マジョリティ社会への怒りもあるのだろう。マジョリティ社会がわかりやすいようにという配慮=ご都合主義の改変をしなかったから、物語は複雑になり、背景説明が多く書かれ、一部の玄人(「われわれ」関係者?)にはかなり喜ばれるが、その価値を見いだす倫理観の高い高校生などに評価されるものの、なかなか流行せず、Silentみたいな大衆受けドラマに先行されてしまうわけである。きー。世の中の倫理観よ、ビブリオバトルの彼女に追いつけ!(NHKが追いついてくれた!)

さて、丸山さんはシナリオライターだったというが、デフ・ヴォイスが映像化されて、1.5時間×2回では全く収まらないエピソードが詰め込まれていたことが可視化された。ワンクールのドラマにするくらいの分量で書かれたのかもしれない。何を取って、何を捨てたか、脚本家や監督の苦労が伺える(ドラマの感想のプロの人の記事を見ると、多くの要素が濃密に交錯していることが示唆されている)。そういえば「手話の社会言語学」1クオーター700分の授業の教科書に指定できるくらいカバー範囲が広い。ろう社会にまつわる問題がかなり織り込まれている。あれ? これ、ホントに1冊の小説なの? 何かの解説書じゃないの? (そういえば、以前お世話になったビブリオバトル発案者のたにちゅーさんもAIの解説書として小説を出してたな。)

この小説では、登場人物の描写をするのに、コーダとはこういう人で、このくらい手話がうまくて、とか、この人は優生保護法によって子どもができなくて、とか、社会の構造を背景に説得力がある設定を持ってくる。だから割と「個人としてどんな人か」というよりは、「こういう立場の人はこんな人」みたいなところから人物造形をしている。もちろん、荒井がいじけんぼなのは、警察を辞めるいきさつとかもあってそれだけではないんだけど。前妻と離婚した理由は「遺伝」を心配したからという「社会構造」からくるものだった。個人的な行動の動機が、個人的な事情ではなくて、社会の不平等で説明される部分が多いのが特徴だ。

この「社会派ミステリー」を読むには、ろう文化について、背景知識が結構ないと、最初は「なんのこっちゃ」となるところも多いのかもしれない。あるいはその背景が重たすぎて、「そうだったんだ」って気が散るかもしれない。説明はしっかり書いてあるけど、それに飽きずに読み進める根気が要るかもしれない。後半は謎を解こうとする荒井が、行き詰まったり手を尽くしたりしていてミステリー要素が強いのでそこまで行き着ければあとは彼と一緒に走れる。

簡単な筋としては、「殺人事件の謎」を解くことで「荒井はいじけている」問題も多分、解けるということだ。

普遍的なテーマとモチーフ

丸山正樹はどこまでご都合主義をしないでいけるかのチキンレースをしているが、Silentが流行ったのは、主人公の聴覚障害を「孤独」のアイコンとして働かせることに成功したからだ。

孤独に寄り添ってくれる人、初恋の人がそれぞれ手話を使う。私だけが孤独に寄り添える「ことば」を持つ。そのことば=手話の独占性がそのままその人の孤独の共有につながっている。「ことば」をコミュニティから切り離して、個人のものにして物語が編まれていた。「私がかれにことばをプレゼントしたのに、それを使い回された」という台詞。これが恋愛においてはある種の普遍的なテーマ「コミュニケーションの独占」みたいなのと通じるので、感情移入ができるようになっているような仕組みだった。上手くことばが通じないこと、相手の気持ちがわからないこと。かなり普遍的なテーマだ。それを端的に表せる手段として「文化の盗用」をされたのが「手話言語」というモチーフだった。

ではデフ・ヴォイスにおける、「普遍的なテーマ」とはなにか。多分だけど「他者と違う自分を、他者ではなく自分基準で認めること」だろう。「ろう文化宣言」は、アイデンティティをマイノリティが自分で決めると高らかに宣言したものだった。だからこそ、この作品では、「ろう者がろう者を演じること」「難聴者が難聴者を演じること」が大事なのだ。「コーダがコーダを演じること」も。それを引っ張ってくれる主人公は、紆余曲折を経てまた人気俳優の座に戻った「主人公を演じられる人」が主人公を演じることもある意味で含まれるかもしれない。

「自分で自分のアイデンティティを決めることができる」それは、「自分を尊重してくれる人と、ともにあれ」というメッセージでもある。ろう者や難聴者を尊重するドラマ制作者だから、当事者たちが全力を出し、ドラマが前代未聞のものになっている。

後編の大団円が楽しみだ。某サスペンス劇場みたいに、崖に犯人がおいつめられて「私がやりました」って遠藤憲一に言うのを草彅剛が通訳するんですよね(?)。

いやそんなはずないでしょ、と思った人は原作を読もう。今ならKindle UnlimitedやAudible聴き放題でも。ドラマ前編はNHKプラスでまだ見れる。後編はNHK総合12月23日(土)夜10時から。

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