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爺の集まりに紅一点 第14週

#虎に翼

木曜日、トラチャンがキレた

割と情緒が忙しいドラマで、複数のストーリーが並行して走っているので、「え、どうしてそうなった?」ってシーンが多い。そういうときはTwitter(X)でカンニングする。そうすると「男社会で怒りたくても瞬発力が足りなくて怒れなかった人たちがトラチャンを応援している図」がわかる。

そうだ、なぜか「女性が渡した方がいいから」と花束贈呈役に若い女性が任命されがちで、そこでの対応は、どんな感情を持っていようが「スンッ」で済ませてきた「私たち」を越えるためのドラマとして描かれているのだ。大人の女性としては、あそこでぶち切れてブッチするとか、お祝いの席で主役の老先生にぶち切れてトンズラとか、まーない。それが「スンッ」の源泉だ。それを最初の方で提示し、家族を支えるために働き始めたら「スン」が抜けなかった寅子。

という文脈情報を読み込めば(つまり、「私たち」の経験を参照すれば)寅子の怒りはわかるし、そこで発露するのはドラマのテーマに関わる大きな問題なのだ。わかるのだが、「私たち」じゃない人には伝わらないのではないのか? という心配はあるよね。

穂高先生がやったことは「差別はたいてい悪意がない人がする」なのだ。というか「無視」以外の「差別的対応」は、マイノリティに一番近い人がやりがちだ。

私も手話研究者をしていると、「おまえのそれは差別的対応だ」と指摘されまくる。マジョリティ代表の立ち位置として怒りを受け止める役目がどうしてもあるし、マジョリティがやりがちなことは全部やってきたと思う。私なぞ、あのK先生に向かってさえトーンポリシングをかましていたくらいである。差別について、解像度が高い本がある現代だからこそ気づける取り扱い(トーンポリシングだけでなく、マイクロアグレッションとかも)があるわけで、それを戦後すぐの時代にすでにおじいさんだった人に求めるのは酷なのだろうな、と思う。以下の本がおすすめ。

それにしても穂高先生の退任祝賀会の絵。灰色の髪のおじいさんを何人揃えたんだ・・・。チラッと映るモブじいさんたち。カラフルな女学生に囲まれて裁判を傍聴に行った穂高先生の最後は灰色のおじいさんに囲まれたままなのだ。これは先生自身だって「紅一点」でも残ってくれたことに喜びを感じるだろう。そしてちゃんと寅子の衣装は赤。髪のまだ黒い3人の先輩たちに囲まれて裏方をやっている。

穂高先生が謝りに来た金曜日

マジョリティが何をやればいいかというと「私はあなたと同じ、無力な人間です」と意思表明をするのではなく、間違いに気づいたらちゃんと謝ることだ、というのが多分、「私たち」が理想とするマジョリティからマイノリティへの対応なんだろう。だから穂高先生は「理想を掲げながら現実は古い対応をしてしまった」と謝りに来た。

ただこれって、マイノリティ側の人間が思い描く「理想的な対応」であって、イマジナリーな存在というか、それが突然手に入るドラマなんて嘘くさいね、教科書的だね、と思ってしまう・・・「マイノリティ」側の私がいう。

「スンッ」をやめて「怒り」を表明したら、普通は大団円にたどり着けない。だから「スンッ」してるしかないんだよ。なぜかうまく行く寅子はなんなんだ。多分、本当の三淵さんはたくさんスンッしてきたんじゃないかなあ。紅一点で「はて」はともかく「怒り」を振り回してうまく行くとは思えない・・・。

穂高先生の最後の教え「君もいつか古くなる。それまでがんばって立派な出涸らしになってくれたまえ」というのは、いましめでもあるんだろう。君もいつか間違える。誰かを踏みつける。そのとき、次にバトンを渡せる「出涸らし」になりなさい、というメッセージですよね。間違えたとき、年長者から、折れろ、それを見せているんですよ、と。

皿を食らう謎のシーン

それにしても桂場さんは、なぜ皿を食ったんだろう?「毒をくらわば皿まで」くらいしか思いつかないけど、何が毒? 法に干渉してくる「権力」とか「道徳(父性)」みたいなやつが「毒」なのかな。今週は、尊属殺の問題で穂高先生が多数決で破れ、これ以上はふんばれない」というところから始まったしな。

穂高先生が法曹界における父であり、桂場さんが兄弟子だったんだなあ。「ガキ」とか叱りながらも、というか、ああいう風になるかもしれないとわかっていながらも、ちゃんと先生に会わせて膿を出す機会をなんとか作ろうとしてくれる。しかしな、桂場は、寅子が倒れたときに穂高が雨だれがどうとか言ってたのを聞いていたから、ブレーキが効いてたとは思うけど、自分が整えた行事で後輩にあんな非礼をされて、あれだけで済むかね・・・。お膳立てまでしたのにー。

とはいえ、穂高先生の意見は残る。去って行った女性たちは記録にも記憶にも残らない。そこは大きな差なのだ。「あなたも私も岩を打つ雨だれの一粒」と言いつつも、「あなたは雨だれなのだから」と寅子に退場の引導を渡したのはやはりしんどかったねえ。

おまけ

たばこを吸う人が画面に映らないけどちゃんと灰皿がほぼすべての場所に置いてあるのが面白いなーと思っている。

小林薫さんのお父ちゃん見たさに「カーネーション」(2011)をチラ見したら、早速子ども(女児・子役)をはたいてるし、皿は割れるし、今だとそれは放送されないのかもな・・・時代物でも暴力がない、たばこを吸わない。

その代わり、皿を食う・・・謎だ。アレが暴力の代替物だったのか?


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