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ジンジャーミルク

今井ミカ監督の映像は、色彩感覚がきれいだ。私の手話言語学の日本のお師匠であるI先生は、ろう者の写真は聴者に出せない色や構図があるといっていたが、それを信じるに至ったのは、「虹色の朝が来るまで」だった。

今回の作品も色合いにこだわりが感じられるものだった。

1時間ちょっとのこの映画は、登場人物がほとんど4人しかおらず、四角関係であることがすぐにわかる。#ろう者 2人、聴者2人、男が2人、女が2人。

映画上映で観客が一番盛り上がった箇所は、ろう者の大学生であるれいが「もううんざり」とでも言わんばかりに勢いよくノートPCを閉じるシーン。コミュニケーションがそこでぶち切られ、「ああ」というため息が漏れる。観客は、「お」「なんだなんだ」とその前のシーンからざわざわしだし、PCが閉じられたシーンでカタルシスを得る。なぜそうなるかというと、観客はろう者側の視点に立てる仕掛けがあるからだ。

ろう者が作る映画は、手話での語りの保存という意味で、私は学術的にも価値があると思う。それ以上にこの映画は、擬似的にろう者に感情移入できるように作られている。監督がろう者だし、スタッフもほとんどがろう者だ。だから、ろう者がどんな理不尽を感じているのか、とくに苦労もなく、その視点に立つことができる。

これは流行のテレビドラマ #silent には不可能なことである。あのドラマは、誰の視点に立とうとしても、ろう者から見れば、フリクショナルムービーであり、彼らの文化を踏みにじられているように感じられるようなエピソードがいくらかある。

当事者によって作られる語りが、とても重要だと思う。そしてそういう作品がエンターテインメントとして世に示されたことは、価値があると思う。

silentを見ていて、自分も手話学習者である者として、「ヒロインが手話習得の段階にあるはずなのに、全然手話を間違わない」ことに不満を抱いていたら、この映画では、むしろ聴者はいつも間違えている。こちらのほうがよっぽどリアルに近い。ただ、これは元々手話がある程度できる演者だからできていることを忘れてはならないと思う。付け焼き刃で「つっかえつっかえ話す」を今まで知らなかった言語でやるのは難しいだろう。

ご都合主義で聴覚障害をテーマに選ぶことなく、当事者の内なる表現欲から出てきたシナリオであり演技であると思った。

エンドロールでは、ろう者の2人が肩を寄せ合っている絵が示される。私はそれがとても象徴的だと思った。映画を見終わる頃には、手話の世界を知らない人も、この2人がどのような関係なのか、ぼんやりと理解できているだろう。そういう意味で、よくできた作品だと思うのである。

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