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年の差が20歳で結婚生活20年になるといろいろありますので少しずつお話④

大きな出来事がありました。しかもそこからさらにこの次はきつくなるので、どこまで書くか迷います。ただそのあと一番幸せな時期が始まります。

ここまでも、それほど多くの方が読んでくださっている訳ではないことはわかっています。今のままでは、まったく、年の差夫婦の面白い話ではない、と自分でも思います。歳の差だからこその話を余り書いていません。

こういうのは、妻の側が書く方が面白いのです。実際に私たちの場合も彼女がブログを始めると、大変な人気になりました。

そのことも含めて、次の次ぐらいに、年の差夫婦の楽しさや実際におこった面白いことを書きます。

また、ここまで書いて驚くのは、今から書くことは、結婚した翌年のことです。つまりここまでで、まだ1年分も書いていない。これについても、書き続けるなら、この次の次からは目まぐるしく展開し、面白く珍しいことも起こるとお知らせしておきます。書き続けられるかなあ。


別れ

永遠

2004年のお正月になりました。と言うと、ちょうど20年前です。

元日は、私の実家でお年賀祝いから始まりました。

父と母、彼女と私、そして赤ちゃんの「はじめ」。

赤ちゃんを自分に下腹の上に乗せた父は、本当に嬉しそうで、昔からほとんど飲めないお酒を、いくらか多く飲んでいます。

そして、
「今年にこうして、みんなで正月を迎えることができて、本当によかった」とかあまりにもしみじみと言うので、
「来年も再来年も、これからまだまだある」
と私は言いました。

けれど、父はおそらく、そのときには自分の体調不良をもう知っていたのだと思います。

6月になって、父と私で100名の吹奏楽と合唱を大ホールで指揮して行う演奏会の相談をしたときも「来年からお前がしっかするんだぞ」とか言います。

その年の8月に、附属小学校がNHK学校音楽コンクールの県大会に初参加するときは、「はじめ」を連れて練習に来ました。

こういうとなんですが、既に一角の指導者気取りになっていた私は、私よりも優れた指導をできる者はほとんどいないと思っていたのです。
しかし、さすがに60年近く指導してきた父の指導力は、私がこれまでに見て来たどのような指導者にも勝るとも劣るようなものではありませんでした。

実は、私は20年も教員をしながら、父が子どもたちに合唱指導をするのはそれまで一度も見たことがなかったのです。
5分で子どもたちの歌声が変わります。参りました。

ただ気になったのは、ときどき指揮をしている父の手が、自分の胸をそっと抑えることでした。あとで死因を説明してくれたお医者さんによると、もうその頃は、普通の人なら苦しいとか痛いとか言って入院しているはずだとのことでした。

コンクールは県で1位になりました。
父は上位大会に参加する前の練習も来てくれましたが、もう子どもたちの前に出ることもなく、音楽準備室で「はじめ」と遊びながら聴いていて、あとからあれこれ指導してくれます。

さらに、後日のことですが、何人もの方々から、9月や10月は、「久しぶりにあなたのお父さんが来てくれた」「顔をみせにきてくれた」「たまたまお会いして話をした」などとたくさんたくさん聞きました。

まるで、自分が歩んできた所を、少しでも多く最期に訪れたような感じです。

11月に九州で行われた国民文化祭に、私たちの楽団から私たち夫婦を含めて数名が参加するために「はじめ」を実家に預けました。

「はじめ」を迎えに行ったら、そのころにしては珍しく、父の話が止まりません。翌日が月曜で仕事になるので、途中で切り上げて、車に乗り込んでも、父は車の窓から顔をつっこんで言います。

「今は、学校で、先生たちはみんな何をどうすればよいかわからなくなっている。そういう先生たちを集めて、みんなで知恵を出し合って、学校をよくなるようにしなければいけない」
「それは、伊東功さんの仕事でしょ」
「いや、もう・・。お前がやれ」
「まあ、その話はまた。すぐ来るから、そのときにしよう」
「ちょっと待て」
「もう一つだけお前に言いたい。お前はみんなによくしてもらっているが、それがよくわかってないところがある。みんなへの感謝が足りないのだ。これからは、周りをよく見て、感謝の気持ちを忘れないように」

この部分は、今、こうして書きながらも、涙が出そうになります。
「感謝の気持ちを持て」
これが私が父から直接に聞いた最期の言葉になっているのですから。

11月10日の早朝に私の家の電話が鳴りました。
はっと思い当たった私は、電話に出た彼女に、いきなり「どっちか」と尋ねました。
彼女は「お父さん」とだけ答えました。

母が私に連絡してきたのは、父が自宅で倒れてから、1時間ほどしてからのことになることはあとからわかりました。かかりつけの病院まで100mほどのところに自宅がありましたので、母は。すぐに行けると思い救急車を呼んだのでした。救急車が来るのが遅い上に、身体の大きな父を運び出すのに30分以上かかったとのことでした。

そのとき動転していた母は、救急の電話番号がわからなかった、ともあとで話してくれました。
廊下に倒れままになっていた父は、それに気づいて「119番」と言ったそうです。
「119番」が父が50年近く連れ添った妻への最期の言葉でした。

私と彼女と「はじめ」が病院へ着いたのは母からの電話から15分後でした。本当ならもう少し前につけたのですが、一度、車を止めて心の準備をしました。
病院では延命というよりも、心肺蘇生法が既に試みられていました。妹も来て次第に親戚も集まり、母は「どうなってるの。なんでお父さんは起きて来ないの」と叫んでいます。親戚が母を病院の外へ連れ出しました。

結局、妹と相談して、最後の蘇生法をお願いし、死亡を確認してもらいました。あとは知人の医者もいたので、死因の特定のために司法解剖をお願いしました。簡単に言えば、心筋梗塞からくる心タンポナーデとかいうもので、肺の中が水でいっぱいだったそうです。また肝臓も相当に固くなっていたそうでした。

司法解剖も立ち会ってくれた近所に住む大学病院のお医者さんが「近くに住んでいるのに、気付けずに申し訳ありません。普通なら、春頃にはもう入院治療が必要な状態でした」と言います。

実家に戻って、何やら言っている母が、父親の手作りの手文庫からノートを出してきました。それは、自分が死んだらどうすればよいかを父自身が全部書いたものでした。
「どうせ、あきらは何もできないだろうからって、お父さんが」と母は泣きます。その通りですが、これもまた、それはそれで参りました。

その日の夕方に学校に直接に報告行ったあと、音楽室に行ってみたら、黒板いっぱいに、夏のコンクールで父の指導を受けた合唱クラブの子どもたちから父へのメッセージが書いてありました。
その真ん中には「11月10日はイトウの日」とも。

「お父さん、私はあなたのようには、なれません」
涙が流れます。心の中では、この言葉しか浮かびません。
お父さん。

家の中は、書籍や楽譜、書類などがきちんと整理されています。家の外の倉庫の中も、大好きな釣り道具や大工道具が、ていねいに整理されています。

お通夜は父がこの時のために準備してあった葬儀場を、会場の人が全部を使えるようにしてくださいました。たくさん人が集まったからです。
大きな花輪も、もう何が何かわからないぐらい壁一面から廊下まであふれて並んでいました。
この世の終わりのように感じるほど私には辛い夜でした。

「金曜日にお葬式をしてはいけないよ」
東京からかけつけてくれた大手楽器店の重役に言われました。
告別式には、都合のつく方々は全国から集まってくださったようです。

喪主となっていた私は、挨拶の模範的な文章を全て覚えた上に、自分の言葉を付け加えて、参列していただいた方に向かって言いました。
「父の私への最期の言葉は、お前は感謝の気持ちが足りないから、これからは感謝の気持ちを持つように、と」

年上の従兄から「たくさん葬式には出てきたが、喪主の挨拶で泣かされたことはめったにない」と言われました。

霊柩車の運転手さんには「失礼ですが、この方はどんな有名人なんですか。この葬儀場で、平日の昼間に、これだけの人が集まったのは、見たことがありません」と言われました。私は、都合をつけてくださったみなさんに申し訳ないと思うばかりです。

そして、ここから、さらに大変なことになります。
というのも「この機会に」と父を知る方々から、私の知らない「伊東功」の人生を、たくさん、たくさん、聞くことができました。
母が「聞けない」というので実家にどなたかがお越しになると私が対応に向かいました。
聞けば聞くほど、私はどのような人物の子どもとして産まれてきたのか、知らなかったことが恐ろしくなるようでした。

初七日を迎えたあと、私は壊れました。

刹那

父が亡くなった病院のすぐ近くの実家に、母と妹と私がいました。

疲れと悲しみとこの先への不安で、特に私と母は神経がギシギシしていました。
「どうしてお父さんが倒れたときに、すぐにこちらに連絡して来なかったの」
ついつい私が母に言ってしまいました。
「今はそんなこと言うのはやめた方がいい」
妹の方が冷静です。
「何を言うの。あんたら勝手にお父さんが死んだと決めたり、大学病院に連れて行かせたり。なんてことしてくれたの」
母は泣き叫びながら言います。
その声を聞いているうちに、私の全身が音を立てて硬直するのを感じました。鼓動が激しくなり、息苦しくなります。
「死ぬかもしれない」
「それなら自分で病院へ行けばいい」
母の言葉で私は実家を出て病院まで歩いて行きました。
父が歩けるうちに向かっていたら、すぐに着いたはずの病院です。

私は集中治療室のベッドに寝かされて、点滴などされています。
その間、ずっと、私は、次の瞬間には死んでいるという感覚が続きます。

妻も赤ちゃんを連れて病院へ来ました。
「もう死ぬと思う」
私はかなり大きな声でそのようなことを言い続けていたそうです。

しかも隣のベッドには交通事故で大けがをして、命の危険のある人が寝ていて、廊下で家族がじっと様子を見守っています。
というのはあとから妻から知らされたことです。
「本当に死にそうな人がいて、その家族の方も心配しているのに、その隣で、もう俺は死ぬ、とか、ずっと言い続けて、本当に恥ずかしかった」
妻はそんなことを言いますが、死ぬと思っていたのも、実際に死にそうだったのも、私には事実です。

ときおり声をかけてくれる看護師さんがとても優しいのと、当直の女性の担当医が、ほとんど私の所には来なかいことがわかるくらいになりました。
それまでは、本当に混乱していて、自分がどこにいて何をしているのかさっぱりわからず、ただ、死の恐怖だけが全身を覆っている、という感じでした。

廊下から様子をうかがっていた母と妹が近づいてきました。

私が母の手をにぎりると、母はそのままにしていました。
「産んでくれてありがとう。今まで育ててくれてありがとう。あれこれあったけれど、お母さんの子どもでよかった」
私は母の手をにぎりながらそんなことを言ったのです。
聞いている母の、何とも言えない不思議そうな顔が思い出されます。

「落ち着いて来たようだとお医者さんも言ってるので、家に帰るから。あまり大声で騒がないように」
母がそう言ったあと、今度は妹がのぞき込んできました。
「もう。本当に大変な人もここにはいるのだから、ちょっと静かにしていた方がいい」
「うん。ありがとう。小さいときから余り兄として優しいこともできず、喧嘩ばかりしてきたような気がするけれど、いろんなときに、妹がいてくれて心強かった。これまで、ありがとう」
妹は手をにぎろうとすると、それを遮って
「はいはい。お母さんもだいぶ疲れているから、今から家で休ませる。あんたも、ちょっと休んで、体調を整えた方がよいと思う。それじゃあ、あとは嫁さんに任せて」

彼女が赤ちゃんを妹に渡して私をのぞき込みました。
その彼女を、私はベッドに引き寄せて、思い切り抱きしめました。
たぶん、それまで、それから、このときほど強く、本気で、彼女のことを抱きしめたことはないと言えます。
「いっしょになってくれて、ありがとう」
もう私は泣いています。彼女の涙も私の顔の上に落ちてきます。
「子どもを産んでくれてありがとう」
さらに抱きしめる力が強くなります。

様子を見ていた妹が「もっと小さい声で」とため息まじりに言っています。

私はしばらくそのまま彼女を抱きしめていました。
「ありがとう。大好きだ。ありがとう。幸せだった。ありがとう」
などと繰り返しながら。

私が彼女を腕から離すと、彼女はハンケチで自分の涙を拭いています。
「それでは、先に帰ります」
妹がそう言って、母とともに私のベッドから遠ざかっていきました。
私は何度も手を振って別れを惜しみました。

しばらく彼女は私のベッドのそばにいましたが、赤ちゃんもいるので廊下の方に出て行きました。

すこし天井を見つめているうちに、だんだん我に返ってきました。
どうも自分は、見慣れた集中治療室の一番端のベッドで、点滴をされながら寝ているようだ。しかも、点滴が終わり、看護師さんが「だいぶ落ち着きましたね」と声をかけている。

私が起き上がろうとすると、あわてて看護師さんが「もう少し待ってください。先生に聞いてきます」と言って離れていった。

かなり混乱していたことは覚えているし、こうして思い出せるように、母や妹に感謝の言葉を言い、彼女を力いっぱい抱きしめて「大好きだ」と言ったことも覚えている。

ただ、私は、その頃には、ベッドの上で、言いたいことが言えてすっきりした、というような気分にもなっていました。
こういう混乱は、35歳ぐらいから始まって、それから10年の間に、あちこちの病院に、自分で行ったり、家族に連れられたり、最初のころは救急車で運ばれたりしていました。
初めての病院では、だいたい一晩、集中治療室に寝かされてと、翌朝に医者から状況を説明聞いて帰されます。
何度目かの病院になると、落ち着いたら、もう帰っていいと言われます。
特にこの病院は実家から近いので、私は子どものときから何度も来ていました。
あるときは、医者の見ているの私のカルテを見たら、昔の電話帳よりも厚くて驚いたこともあります。

一度当直の女医さんが私の顔を見に来ました。
視線がしばらく合っています。そして小さくうなずいてから言いました。
「大丈夫ですか」
「はい」
返事をすると、女医さんは離れていきました。

しばらくすると看護師さんが来て言いました。
「もう帰っていいと先生が言ってます」
「お騒がせしてすみませんでした。よくしていただいてありがとうございます」
立ち上がって、少しふらつきながら「ありがとうございました」と担当してくれていた女医さんの横を通りかけたら
「伊東さん、ちょっと待ってください」
と止められます。
そして一通の封筒を私に持たせました。
「なるべく早くその病院に行ってください。お大事に」

こういうことは初めてでした。

実家に戻り、母と妹に感謝とお詫びをし、彼女の運転で私の家に戻りました。
家に着くと、彼女は泣きながら言います。
「もう、本当に命の危ない人が隣にいて、その家族の方たちもいたので、あんなに騒いで、かっこ悪かった。それにいきなりあんなところで、みんなが見ているところで抱きしめてて、大声で、大好き、とか言われても・・・」
あとはずっと泣いています。

私は、泣いている彼女をそっとなでていました。
傍らに置いた、あの女医さんから渡された封筒を見ながら。






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