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『散る日本』坂口安吾著~昭和2年第6期名人戦第7局の観戦記~2024年7月19日

戦中から絶対的な強さを誇っていた木村義雄名人に当時八段だった塚田正夫が挑戦した第7局。これは指し直しの一番で、第7局が一度「千日手」になり指し直しになったために行われたもの。それを最初から最後までを観て両棋士の様子や棋譜、周囲の様子などが小説家の目で観察記録されている。

著者の坂口安吾は敗戦直後の1946(S21)年に『堕落論』『白痴』などを発表し一躍流行作家となっていた。翌年には24歳の美千代と41歳の安吾は結婚。美千代を題材としたと言われる名作『青鬼の褌を洗う女』の前に文芸誌の「群像」に発表されたのがこの『散る日本』。さらにその前にはこれも名作とされ劇や歌舞伎や映画の題材にもなった『桜の森の満開の下で』が発表されている。

私は今回は、ちくま文庫の「坂口安吾全集05」の初版本(1990)で読み直した。本棚を見ると、私の蔵書で最も古ぼけたものが、角川文庫の「散る日本」(1979)で、どうやら私はこの本でこの作品を読んだらしい。坂口安吾は囲碁はたしなんでいたが、将棋は「私には分からない」と文中で言っている。しかも面白いのは、この作品中では具体的に書かれていないが、同棲を始めていた美千代が盲腸炎をこじらせ、その看病を献身的にし終えたころに、この名人戦の観戦がかなったように書かれているのが、私にはほのぼのと感じられる。

坂口安吾の囲碁や将棋の観戦記は、他にもいくつかあるが、当時は当然ながら。今のようにテレビや動画サイトで対局の実際の様子を見たり、勝負の行方をあれこれと伝えたりするようなものはなかった。せいぜい翌日の新聞の記事で、写真や勝負の解説や棋士の感想などを読むことができた程度であろう。それを、このような観戦記が書かれたということは、6月の勝負の様子が8月号の文芸誌に載るという時差はあっても、十分に臨場感を味わう新鮮さはあったと思われる。これは今回読み直しても、80年近く前の対局が、今目の前で行われているものを観るような気分になることからもわかる。

『散る日本』の主題は『堕落論』と通じるところのものである。その上で、何度も繰り返されるのが、棋士にも「生活の問題がある」「将棋は遊びではないはずで、一生を賭けた道ではないか」「常に実力のみが権威でなければならぬ」「将棋に殉じ、その技術に心魂ささげるならば、当然勝負の鬼と化す筈」「実質だけが全部なのだ」という本質論。その合間に、「研究が勝つ」とか、勝負の行方が決まって両棋士が疲労困憊しきっているときに「そのくせ部屋いっぱい、はりさけるように満ちているのが、殺気なのだ」などとあって、今の「観る将」が感じる雰囲気も、きちんと書かれている。

記録によれば、失冠した木村義雄は将棋連盟の会長を務めながら、やはり一時的に生活に苦労したという。しかし1949(S29)年には第8期名人戦で名人位を奪還し、それから3期名人位を守った。坂口安吾は『勝負師』で第8期名人戦第5局で木村が名人位を奪還する模様を書いた。また戦前の『青春論』(1942)では、宮本武蔵の剣術について書く中で、すでに「将棋の木村名人は不世出の名人と言われ、生きながらにしてこういう評価を持つことはおよそあらゆる芸界に於いて極めて稀なことである」とも述べている。

昨日の18日は藤井聡太名人と渡辺明九段の名人戦第2局があった。私は藤井名人が投了する少し前から動画サイトで様子を見ていた。『散る日本』には、木村名人が投了したあとに「一秒の沈黙も苦痛の如くに、すぐに語をつけたして」具体的な感想戦のようなものが始まった様子が描かれている。まさに、昨日の投了直後の藤井名人の様子とこの描写が重なったのはいささか驚いたのでもあった。

『散る日本』の最後の章には、「強者が追い込まれた時の心理上の負担は大きく、深刻だから、強者の方が自滅する」という表現もある。その前後も含めて、全体を通して、昨今の将棋界の様子を思わせるところも多く、さらには、現代の世相にも通じるところも少なくないので、機会があれば一読されることをお勧めする。





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