サブスクは人の限界を決めるか?

私はアマゾンプライムに加入している。アマゾンプライムのサービスの中に「プライムビデオ」があり、一定数の映画・動画が見放題だ。テレビCMにも出ているので、ご存じの方も多いと思う。

アマゾンプライムは「動画見放題サービス」というより、商品販売サービスであるアマゾンの利用促進の点が強い。とにかく、一定額を支払う事で一定の動画が見放題になる、ネットフリックスやディズニーチャンネル、なんでも良いのだけれど、サブスク(サブスクプション、定期購読)モデルが人気である。

私はアマゾンプライムに加入するまでは、ほとんど映画を見て来なかった。年に1本、ジブリの新作や、一昔前で言うなら「タイタニック」など、超メジャー作品を見に行く程度だった。

アマゾンプライムに加入してからは、映画をよく見るようになった。その作品単体でレンタルして見る事はないだろうが、無料(とは本当は言えない。追加料金なしに、という言い方が正しく、この「無料感」はまた別の考えるタネではあるが)で見られるなら見るかー、という程である。

私は映画は見るが、趣味が映画好き、という程には映画を見ていない。特に最近は、プライムビデオでオススメされた映画しか見ない。(シンエヴァは見に行ったが)。

プライムビデオが、私の見る事ができる映画の限界を決めているわけでは、もちろんない。プライムビデオで見る事ができる映画の中でも見ていない作品は多くある。

映画を見るという点において、プライムビデオワールドに私は生きている。その世界の果ては有限であるが(作品数は決まっているから)、私はそのすべてを知る事はできず、無限のように感じている。(全ての作品を見る事はできないから)

あえてその世界の果ての向こう側を見に行きはしない。シンエヴァのようにもはや宿痾のような作品は見るけれど、TSUTAYAに行って良い映画がないか探す、という事はなくなった。

映画から、少し一般化する。サブスクで与えられる私たちがアクセスできるモノは膨大であり、サブスク料金を払ったからには利用しないと、という意識は当然である。大事な事だと思うのは、サブスクに与えられるモノを利用する事が、与えられないモノにアクセスしようという気持ちを抑制する、その事だ。

サブスクサービスの提供者が、サブスク作品群を無限に感じさせようとするのは、最もな事だ。サブスクの利用者も、無限の作品があるように感じた方が嬉しい。しかし利用者としてサブスク作品を見る時に、私たちがアクセスしているのはネバーエンディングワールドではなく、果ては遠くて見えないにしても、とてもとても大きな、幸福な牢獄であると少し考えてみるのも良いと思う。

まぁ地球人として、地球の有限性、つまり私たちがどこまで行くかに足かせが付いている、なんて考えながら生きていれば、狂気に近づいてしまう気もするので、容量・用法は正しく。しかし、狂気の正しい容量・用法なんて、あるのかしらん。

あなたの心のスキマが埋まりましたら、ソーレッ!エイヤサッ!エイヤサッ!エイヤサッ!あなたのいいとこ見てみたいっ♡エイヤサッ!エイヤサッ!エイヤサッ!