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同一言語圏


思ったことをつらつらと。

日本においては言語圏は同じ日本語である。ただ世界で10番目、11番目の人口を持つ日本の中でも当然のように文化の違いが存在する。それは海外におけるものとはまた違ったものである。

例えば東北のほうが関西圏に比べて言葉数が少なく、直接的な表現をする。また形式的な挨拶も少ない。かたや関西圏は挨拶を重視しコミュニケーションを重視、会話というものに動的な流れが存在する。

これは東北がより封建的な社会が続いていたため、周りを巻き込む必要性や歪曲的表現の必要がなかったからという説がある。かたや関西は現代の状況に近いため、リーダーシップを駆使して人を動かす必要があった。どちらがいいというわけではなく、スタイルが異なる。

これはヨーロッパにおいては北欧と南欧に当てはまる。北欧、特にオランダ・ドイツなどは南欧に比べて直接的表現を好み、批判も正面から行う。南欧は批判はせず、悪いことも言わないがコンテクストは強く存在するため裏の文脈がある程度存在する。

コンテクストが他に強いのはケニア等のアフリカ諸国や中東、中国などがあげられる。同一民族が長く、同じ場所で社会を作ってきた国、エリアに多い傾向値である。(もちろん状況によりけりなので、偏見とは違うもの)

日本は同一言語圏にも関わらず背景が異なる。これは何を生むのか。一番の問題は「同じだと思っている」ことだ。例えばコミュニケーションにおいて相手に期待しすぎる。これくらいできていて当然、というアプローチになるのだ。なぜならみんな同じ、という前提だから。

方や言語が違い、人種が違い、文化も明確に違う、という前提に立つと期待値が変わってくる。そもそも違うことに落胆をしない。日本在住の外国人の口癖には「外国人カード」という表現がある。外国人であれば過剰な期待はされないためだ。たとえ日本語がわかっても、流暢にしゃべってはいけない、そうするといきなり期待値が上がるかららしい(友人談)。過剰な商品・サービスへの要求やストレスを感じるのは一億層同一思考前提社会が原因としてあるのだろう。

期待しない、これは一番の幸せになる方法だ。過度な商品、サービス、友人、恋人、家族への期待はとにかく自分を不幸にだけなんじゃないかなと。


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