スマブラの記憶
数年ぶりに実家に顔を出すと、姉の家族も来ていた。と言いつつ、姉の家族でもいないと実家でのhow to beingがわからないので、姉の帰省のタイミングに私も帰省を合わせただけだった。甥に会うのも数年ぶりだった。私は比較的甥に好かれているようだが、小さい子供はたいへんな不安と緊張と興奮に生きている。同じ数年であっても30を超えてからと小さい子供のそれはかなり、決定的に違うから、私のことはもう忘れて、いや覚えてはいても、謎の怪対象になっているかもしれない可能性は検討していた。そのことを母に言うと、「ありえない」と答えていたが、ありえなくはない。昨日まで親しく感じられた存在がふっと遠くなっていく。その反対もある。そんな激流を小さい子供は生きている。甥は8歳になっていた。感情と経験のネットワークがショートしながら構築されていく日々。時間が前後するが、その後私の運転する車の助手席に乗った際「野球の試合に行くときもお父さんのじゃない車に乗る」と甥はいった。自分の家の車以外に乗ること自体が目新しく、その出来事の意味を経験から参照していた。確かに私も、友人の家の車にはじめて乗った時の記憶はよく残っている。どこに行ったかは忘れている。
そんなわけで面会してみると、野球と出会っていた甥は私と遊ぶのを楽しみにしていたようだった。形式的なキャッチボールを行うと、甥の野球レベルは控えめにいって私を遥かに凌駕しており、なんとかキャッチするだけで私はくたびれ果てた。とはいえ100球くらいは付き合ったと思う。年長らしく、フライやゴロを投げて練習感は演出しつつ、できるだけ伝わるような語彙で才能と熱意に賞賛を送った。
その後、Switchのスマブラをやりたい、と甥は申告した。クリスマスプレゼントにもらったようだった。姉がこういうゲームの購入を決定したことに少し違和感はあったが、大乱闘スマッシュブラザーズなら、私にも多少の心得があった。Switch版も触っていたし、64時代の蓄積がある。基本的な操作はそこまで変わらない。世界的に見れば弱小でも、触って2週間も経っていない子供に負けるはずがない。このゲームのレベルの幅は東京ドームより広い。
おそらく父や母にはそんなことをされないのだろう、ゲームでおっさんにボコボコにされた甥は「なんでそんなに強いの」と戸惑った。「もう12歳くらいからこれやってたから」と私は答えた。そのとき、甥の口は半開きとなり、うまく言葉が出てこなかった。
私が強いことより、この新しく手に入れたばかりのゲームを、おっさんが12歳の頃から遊んでいたことは、驚異的というか、理解を超えていたと思う。確かに私が子供のときも、おっさんの方がゲームが上手いなんて有りえなかった。ゲームは私たちのものだった。もし、甥が出してきたゲームがスプラトゥーンだったら、私も私が子供の頃のおっさんと同じ役回りをこなし、中学近くのゲームセンターで格闘ゲームをやっている私を見つけた担任教員の発言「何やっているかようわからん」を言うだけで終わっていただろう。でも、スマブラはわかる。いくつかのシーンを思い出す。
インターネットという強制的に開かれた窓がなかった頃、いや、今でも小学生にとっては同じなのかもしれないが、自宅にみんなで遊べるゲームを持っていることはそれだけで人気者になりやすい。特に、64のコントローラーを4つ準備できている「家」はそうそうなく、バカな小学生たちへとんでもない求心力を持てる。「本人」の人気とは少し違う力が働く。
「私たち」にとっては、「K君の家」がそういう場所だった。リビングに大きなテレビがあり、暴れる小学生を受け止められるソファがあった。ゲームをしていると、何やら特殊なココアが出された。K君は、ホームアローンのマコーレーカルキンに似ていた。いや、K君の家のテレビの横に、ホームアローンのVHSが置いてあって、それで実際以上にマコーレーカルキンとK君の顔が似ていたように記憶を改竄しているのかもしれない。そもそも私の家には洋画のVHSなんて置いてなかったから、パッケージに描かれた同世代のアメリカの少年の鮮烈な表情の印象がK君本人といくらか混同されても仕方ないと思う。
それにしても、私は小学校に通っていたころ、いったいどれだけの家に遊びに行ったのだろうか。パスポートを用いた際に入国の判子が押されるような明確な記録もなく、私のあいまいな記憶を照合する先もない。成人後に行った海外よりもそれは本当の意味で非日常の行き先だった。もう行けない場所、その後恐ろしい事件が起こった家もある。
しかし、友人の家の記憶が、その家で遊んだゲームとの強く結びついていることにいまさらながら驚く。ファイアーエムブレムをやったTくんの、小学校すぐ近くの、四人もの兄弟が一つの部屋にいたアパート、キャプテン翼をやったKT君の、去勢されていない犬が柱という柱に陰茎を擦り付けていた家。S君のお兄さんがひたすら進める大貝獣物語を眺めていた、散髪屋の裏の部屋。そしてS君のまるはげの祖父が買ってきたたこ焼きの味。
そういう家々の連なりのなかで、スマブラの記憶は「K君の家」に限定されている。ソファなんてあったのはK君の家だけだった。
こうしたゲーム以外では、サッカーやエアガンの撃ち合いなどを展開していたが、大抵、そこにK君の姿はなかった。
私は中学受験のゴタゴタもあったので経緯ははっきり覚えていないが、小学6年生の秋頃から、「私たち」の主な遊び場はK君の家になっていた。それは端的に64があったからだ。
この「私たち」には、先のT君もKT君もS君も含まれていない。私たちの範囲が異様な速度で拡張と縮減を繰り返すのが子供時代で、私はそのことに特に疑問もなく、私たち面をしてK君の家に通っていた。
K君の父は生演奏のバンドが出るレストランを経営し、母は一時期輸入アクセサリー屋を出していた。歳の離れた兄もバンドマンでメジャーデビューもしていた、そして、K君は主にネスを使っていた。決まって黄色と黒の縞々のネスだった。ネスは、PKサンダーを自分に当てて派手に突撃する技が代名詞である。
いつか、白熱していた場面でK君のネスがそのように私たちのキャラクターをぶっ飛ばした。K君は「うー、スマッシュブラザーズ!」と叫んだ。誰もそのノリに乗らなかった。冬の西陽が強く部屋に入り込んでいて眩しかった。その後、4人全員がドンキーコングを選択するトリッキーな遊びなどもしたが、帰り道、特に「やんちゃ」だったM君が、「あいつなんかおかしかったな」と言った。その後8年くらいたった成人式の二次会で、M君はK君について「あいつ端っこにいて全然話さなかったな」と笑うことになる。
私はM君の発言を理解できた一方で、M君の残酷さにも驚いた。しかし今となっては、私こそが鈍感で、K君もM君も同じように、違う形で繊細だったことがわかる。
いちど、夜半にスマブラをやっていたとき、K君の父が血相を変えてリビングに現れ、大変な勢いでK君を殴打したことがあった。当時私が住んでいた町は、親や年上の男性が若年男子を殴ることについて、比較的ポプュラリティを獲得していたし、私も他人の親や謎の先輩からときおり暴力を受けていたものの、K君の親の殴打は何かしら性質の異なりを感じた。K君の親の職業や、お兄さんがメジャーデビューをしていたことなんて、当時はもちろん知らなかった、そもそもメジャーデビューの意味すら知らなかったけれど、あの殴打の特殊性は強く印象に残っている。K君は目を真っ赤にして、すみません、と親に謝っていた。私たちは何も言わず、プレイ中のスマブラをとりあえず一時停止にした。ノーコンテスト、と言うナレーションをバックに、ネスやヨッシーたちが拍手をしていた。
それにしても、64のコントローラーをわざわざ4つ揃えておくのは、なかなか切ない。それは「子ども」がねだるのだろうが、なんといって頼むのだろうか。私には想像もつかない。K君は、そのように手に入れた3つのコントローラーを「私たち」に貸し与えつつ、決まって自分は半分スケルトンの紫のコントローラーを使っていた。私たちは、与えられたコントローラーのうち、特に緑のものはぐりぐり部分が弱っていたので、それを押しつけあっていた。
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