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若かった頃のはなし

僕がトレーナーになった理由や、活動当初は基本をおろそかにして目先の技術ばかりを追いかけていたなんちゃってトレーナーだったことは、以前の記事で述べた。その頃、20代の半ばだったんだけど、そこから理学療法士(Physical Therapist:PT)の学校に通い、資格をとって理学療法士として働くことになる。そこでリハビリテーションの経験をたくさんさせてもらって、自分のやりたかった仕事ができるようになった。

でも、やりたかった仕事につくまでに、いろんな苦労もしてきた。苦労というと大げさだけど、僕の人生は、遠回りがたくさんあって、とてもおもしろいと思っている。だから、今回は番外編として、20代から30代にかけて、僕が一生懸命やっていた仕事、「飲食業」の話をしたいと思う。トレーナーのnoteなのにね。よかったら少しだけ覗いてってください。

とにかく働くことで解消したかった「不安」

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就職先としてトレーナーを選んで、トレーナーという仕事をしていくと決めたのは良いのだけど、もらえるお給料って多くはない。ボーナスもなければ休みもないし、原則一日14時間拘束。準備や掃除や技術練習の時間は業務の中に入らないから、当然拘束時間以上に「トレーナー」として働くことには時間を費やしていた。まぁ、今で言う「ブラック」だね。でも、そんなこと、当時の自分には全く関係なくて、誰よりも働いて、誰よりも勉強して、早く一人前になりたいと強く思っていた。

会社をやめた時、貯金なんてできるほどお給料をもらっていなかったし、使うところには使っていたから無一文だった。アメリカに行こう!って決めたときに、まずお金!ってなって、どうしようか考えたすえ、いろんなバイトに手を出した。引っ越しやら、配送業やら、土方やら。給料が良いとされる仕事はだいたいやってみた。結果、長期的に続けて一番効率よくお金が貯まるのは「飲食業」だった。まかない食べさせてもらえるし、交通費出るからね。。

とにかく、アメリカに行くためにお金を貯める必要があったからめちゃくちゃ働いた。毎日毎日、不安定な立場に身をおいてるから、目標に向かってるんだか向かっていないんだかわからない選択(アメリカ行き)を実行するためにも、急いでお金が必要だと思っていた。

で、ようやくアメリカに渡れるお金を貯められたと思ったら、アメリカにいってきれーいに使い果たしてきた。そしてその時、次の春にはPTの学校に行くと決めていた。浪人なんてしている時間はない。入学までに、入学金と初年度の学費を稼ぐ必要のあった僕は、帰国後も日々飲食業に没頭したわけ。勉强はやばかったけど。。

接客が好きだった、というのも純粋にある。とにかく朝から夜中まで働いた。ほぼ毎日。。けど、20代の大事な時間、いろんなことを吸収できる瞬間をただでさえ遠回りして過ごしているのに、お金のためだけに働いて時間を費やすなんて、自分にとってはただの恐怖でしかなかった。。

とにかく、その頃の僕は、焦ってたんだ。ある人に、「20代後半は自分の人生を左右する一番大きな時間だ」みたいなこと言われてて、その時に何を経験するかは、自分のその後の人生を左右する、って思ってた。今思えば、「んなこたぁねーよ」って笑い飛ばせるけど、当時はね。。

人としての成長、社会人としての常識、トレーナーとしてのスキル、何一つ得られない環境に身をおいて、正しいのか正しくないのかわからない道をひたすら進んでいる。そんな日常に必要以上に焦りを感じていたし、とにかくなんでもいいから「学んでいる」と思うことでその焦りを打ち消そうともがいていた。

だから、効率よくお金を稼いで、一刻も早く、一個でも先に駒を進めたかった。先立つものが無いからやりたいことができない、そういう状況をできるだけ早く打開するんだって言い聞かせていたと思う。そんなわけで、お金を稼ぐために飲食業という仕事を選択し、毎日朝から晩まで一生懸命働くことで不安を解消しようとしていたんだ。。

目の前のことに全力で取り組むこと

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バイトの時間はとにかく売上を伸ばすことや、接客のスキルを上げることを考えて、空いた時間はPTの学校に行くための勉强に費やした。

接客が好き、という話をしたけど、実際僕は接客が楽しかった。毎日違うお客さんと出会って、どうしたら満足してもらえるかを考え、居心地の良い空間を提供すること、お料理とお酒、そして大切な人との時間を楽しんでもらうことを心がけた。そのために始めたお酒の勉强がとにかく楽しくて、どんどん日本酒にハマっていったな。

3つ目に勤めた飲食店で、僕は今でも尊敬し続けている多くの先輩に出会った。とにかくみんなキャラが濃くて、一人について一回分、noteの記事をかけるくらいの人が7,8人はいる。みんな、本気で「飲食」をやっていた。人間的にはなにかが欠損しているなぁ、と思う人が結構いたけど、僕はその人達が大好きだった。笑

本当に毎日毎日、一緒に語っていた。お酒のこと、料理のこと、本日のお客さんのこと、とにかく、お店が終わってからも話題はつきずに、朝まで語ることも度々あった。おしぼりを渡すタイミングはいつだとか、右手から出すか左手から出すか、とか。そして、いつも最後には、その接客に「やさしさ」はあったか、という話に行き着く。

当時統括部長を務めていた人が作ったマニュアルにあったこの「やさしさの追求」というテーマ。結局、自分はわかったのかわからなかったのか、未だに結論は出ていない。

けど、一つ言えることがあるとすれば、あの時多くの時間を費やした飲食業での時間が、間違いなく僕の人生の肥やしになって、今、その経験が活かされている。目の前の選手の微妙な変化、求めていることを汲み取る力、チームにおいて果たすべき役割や立ち回り、誰かの不満や怒りに対する対応、多くのことが、Re-Viveを運営する中で活きている(と思っている・・)。

だから、今、自分が目標に向かって一直線に進んでいないのではないか、と不安になっている若者には伝えておきたい。

将来のことを真剣に考えているのなら、

「目の前のことを一生懸命やろう」

僕みたいに大したキャリアも実績もない人間がこんな事書いても、誰にも響かないかも知れないけど、目の前のことに一生懸命取り組んでいれば必ず道はつながるし、なりたい自分になっていける。

信じていけよ、若者。ブレずに目標を掲げていれば、たどり着ける時が来るよ。焦ったら時間軸をほんの少し、長くしてみれば良い。今日一日から今年一年に、来年までにから10年後には、って少し長いスパンで考えてみると、今やっていることを無駄ではないものにできる日が来る。と思う。

バイトじゃどうにもならなかったこと

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バイトでは届かなかった領域もあった。いや、あると思っていたのかな。社会には「責任」というものがあって、どうやらそれはバイトではなかなか持てないものだった。最後に勤めた飲食店では、店舗の立ち上げやアルバイトスタッフの教育、動線の整備などにまで意見を出して、店舗の運営にかなり深く関わらせてもらっていたと思う。けど、売上が上がらない責任を取らされたことはないし、お客様に最後にお詫びを入れるのは社員や、その上の人だ。つまり、自分でやったことの責任を自分で最後まで取ることができなかった。

そんな責任、無いほうが楽だよ。

そう思う人もたくさんいるんだろうな。前にも書いたけど、僕はその時焦っていた。社会からおいていかれる、周りの友達にも差をつけられて、任されること、できる仕事、社会的立場、全てにおいて自分は遅れを取っているんじゃないかって。だから、責任を持ちたかった。けど、バイトにそれは難しかったと思う。つまり、自尊心とか虚栄心とか、そんなものに縛られて、周りから遅れを取りたくない、みたいなつまらん感情で焦っていたけど、どうにもならないことだったんだ。

かなりの裁量をもたせてくれた職場だった。すごく感謝してる。多くの人と接する中で、色んな人もみさせてもらった。PTになって病院で働いているだけでは決して出会えなかった種類の人達と一緒に仕事をさせてもらって、僕は人生の「経験値」を上げさせてもらった。それでも、今考えると責任を果たすために起こす行動と覚悟は、不足していた。

今、トレーナーとして働いている僕は、選手のパフォーマンスやケガからの回復に責任を持っている。そのためにできることは、考えうる限り実行している。トレーナーという仕事についた真木伸一は、24時間365日、トレーナーとして生きている。それが当たり前だ。だけど、当時の僕は、働いているときだけ「飲食店の店員」だった。

この差は大きいよ。当時の僕に言ってあげたい。

飲食を通して本気でお客さんと関わりたいのなら、その「覚悟」を持ってこい、と。

バイト時代の僕にその「覚悟」はなかった。何度も飲食の仕事をやらないか、って誘ってもらった。そのたびに、自分が最初に志した「トレーナー」という仕事を納得行くまでやってみたい、といって断り続けた。もし、トレーナーとして自分が食っていくことができないようなことがあったら、そのときはお世話になるかも知れません、みたいなこと言ってた。その時点で僕の覚悟は飲食にはなくて、トレーナーとして生きていくことに向かっていた。だから、やはり責任のある仕事はできなかったんだと思うし、トレーナーになれなくて飲食をやっても、うまくは行かなかっただろう。

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(僕たちに優しさを追求しろと言ってきた統括部長は鬼のように恐ろしい人だったけど、仁義を地でいく「すげぇやさしさの塊」だった。結婚式の二次会は、勤めていた銀座のお店を貸し切りでやらせてもらった。)

若いときの苦労は買ってでもしろ?

なんて、よく言われるね。苦労ってなんだろうか。。僕は、20代の多くの時間を飲食業のバイトで過ごした。これは決して苦労なんかじゃない。正しい選択だったのか、と言われてもそんなことはわからない。じゃあ間違っていた?そうも思わない。

とにかく、トレーナーとしての仕事ができるようになるために「通ってきた過程」であることだけが確かなこと。それ以上でもそれ以下でもない。バイトしながら勉強して学校に行って、夜間の学校で学びながら学費を稼いでいたこと、これも苦労だなんて少しも思わない。苦労ってそんな「屁でもない事」ではないはずだ。だから僕は、若い頃に「苦労」を買ってはいない。でもアスレチックトレーナーになれた。そこそこの仕事もさせてもらえている。けど、自分の仕事はまだまだ、まだまだ足りないものだらけだとも思う。年老いてトレーナーでなくなる日まで、学んでいかなきゃいけないことばかり。そういう仕事をすることができて、本当に嬉しい。

だから今思う。若い頃に僕が身に着けていた唯一のものは、実力、とか知識とか能力じゃなくて、「覚悟」だけなんだ。それさえあれば、いつかたどり着く。そういう話なのかも知れない。

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最後まで読んでくれてありがとう。

次はPTの学校時代の話を書こうかな。また読んでくれたら嬉しいです。

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