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永遠の門 ゴッホの見た未来 近代的自我の目覚めと絵画のグルーブ

ジュリアン・シュナーベルの監督作品。
お皿にペインティングしてキャンバスに張り付けていた美術家がいつの間にかこんな素晴らしい映画を撮る監督に(笑)

「潜水服は蝶の夢を見る」もよかったし、バスキアの映画も観た記憶。今回も視聴して私は本当この監督の映像センスや構成力が好きですね。感覚的なので無駄がなく、直感的でストレスフリー。

なんと脚本も私が大大大好きな「存在の耐えられない軽さ」の脚本家ではありませんか!私はミラン・クンデラが大好きで、この人の独特な小説をよく映画化出来たなあと思ってました。ジャン=クロード・カリエールは「ブルジョワジーの密かな楽しみ」とかルイス・ブニュエル監督の代表作の脚本家だったんですね。

2021年お亡くなりになってますが、長~いキャリアの最後でまたこのような尖った脚本を書けるとは驚きです。本当に映画界のクリエイターは晩年になっても息の長い活躍が出来る稀有な分野だなと思います。文化としての成熟度がとても高い。


多分シュナーベル監督が大胆にも直感的感覚的に映画を映像表現として捉えられるのは、映像への信頼がとても高いんだと思います。説明的な会話やシーンを入れなくても、構図やカット割り、時系列のシャッフルでそのエピソードや物語の本質を伝えることが出来る。そのためにカット割りや舞台設定、モチーフの選択、人物描写など、カメラワークはとても練られてると思います。

どのシーンも絵画的というか、画になるカメラ割りのような気がします。具象だけでなく抽象も入っていて、最初の方はよくカメラが動いて視点がブレるので酔いそうになりましたが、きっと臨場感のような抽象的なものを表現しようと試みていたのではと思います。

編集の仕方も直感的というか、映画の中でゴッホ自身に語らせていますが、直感で筆を走らせるように、編集もストーリーを追うのではなく、説明的にならないよう、感覚的にやっている気がします。


ウィリアム・デフォー扮するゴッホが黄金色に輝く麦畑で恍惚の表情で手を広げているだけで、ゴッホが見ていたであろう幻視のような極彩色の世界、自然の美が一目でわかる。

全編南フランスのアルルの自然の美しさが印象的に表現され、印象派生まれるよなあと思うほど輝かしい大地と神々しい木々。ゴッホが光の洪水の中に見ていたもの、見ようとしていたものが、監督の画家ならではの視線によって捉えられている。

ヨーロッパは緯度が高いせいか、草木の色も明るくビビットで蛍光色なんですよね。印象派はヨーロッパでなければ生まれなかったかもしれません。


カメラの揺らぎやぼやけで印象派の画家たちが何を感じ、何を見ようとしていたのか伝えています。現代の技術で視覚をわざとぼやけさせることで、対象の持つディティールが消え、その像の色彩が浮かび上がる。印象派は西洋絵画の骨組みを解体し、モチーフの持つ本質に迫ろうとした、いわば当時の西洋絵画の概念からすると狂気のような、非常に前衛的な集団です。


ゴッホの絵画は情緒不安定な作者の気持ちそのまま、不安にさせる所があるので、私はどちらかというとゴーギャンの方が好きだったのですが(笑)、ちょうど音楽の視覚化やグルーブについて考えていて、そういえばゴッホの絵画は大きなうねりばかりだなと。

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とにかくうねってるんですよね。


ゴッホの死から100年が経ち、21世紀に入ってようやく私たちは音楽の分野で「グルーブ」という概念を知り、どうやら音楽には音以外の何か力があるらしいということを認識し始めましたが、ゴッホは100年も前に自然の世界の生命力、グルーブを感じていて、必死にそれを絵画に描き記していたんですね。

ゴーギャンが最後のゴッホへの手紙の中でも書いてましたが、ゴッホの絵は他の画家の作品と並べると、よりはっきりと絵画以上の何かがそこにあるのがわかります。ゴッホだけ観ているとちょっとわかりにくいんですね。

音楽でグルーブという言葉が生まれて大衆に認識され始めたのも、20世紀末までにたくさんの音楽が誕生した中で、ある種の音楽には何か他とは違うものを感じる、力があるように気づき始めたからかもしれません。



ゴッホの死は1890年。1901年に英国で大英帝国の植民地時代を支配したヴィクトリア朝時代が終わり、第一次世界大戦に向かって、資本民主主義の時代が始まります。ゴッホは37歳という若さで亡くなっていますので、もし生きていたら、にぎやかな資本民主主義の誕生と現代文明の始まりという人類史上もっとも創造的で興奮に満ちた時代を体験していたでしょう。

第一次大戦も始まりましたが、1920年代辺りは今でも繰り返し娯楽作品やファッションのテーマになるほど現代文明のフォーマットやベースが作られた時代。ジャズが生まれ映画が生まれ、大衆文化が爆発的に広がる寸前の萌芽が育っていました。

あともうちょっと生きていたら、ゴッホは自分が感じていたグルーブが様々な文化の中で生まれ花開いて行くのを目にしていたかもしれません。

そこにはゴッホが直面していた封建社会の伝統的で因習的な鬱屈とした無理解や抑圧はなく、ゴッホを追い詰めた西洋文明の堅牢な保守性が紐解かれ、ゴッホの魂も少しは救われたかもしれません。


近代的自我の目覚めは、最初に芸術家に起こりました。西洋ではゴッホのような画家、日本では小説家に訪れた。しかしゴッホのような苦悩を他の印象派が経験してたとは思えない。

貧困や病死による短命はあっても、ゴッホのような迫害を伴う苦悩の物語はゴッホ特有のものじゃないでしょうか。だからこそ、ゴッホの生涯に心打たれ作品に惹きつけられる人が大勢いて、近代美術の父となっているのではないかと思います。


ゴッホが抱えていた苦悩はどちらかというと、黒船の登場により強制的に文明開化という名の西洋化を強いられた明治大正昭和初期の日本の小説家の見えない苦悩に近いように思います。

ゴッホは後期印象派の代表ですので、浮世絵の影響はセザンヌら前期印象派の時代から西洋絵画に影響を及ぼしていましたが、ゴッホがオランダ人だったこと、オランダは鎖国時代から長い間日本の限られた交易相手国だったことに、日本との因縁を感じてしまいます。


他の印象派の画家たちが、構図やモチーフ、光と影など、浮世絵の影響から技術的に西洋絵画を脱構築したのに対し、ゴッホはさらに浮世絵の持つ日本人の自然観のようなものを感じ取ったのかもしれません。


ゴッホが抱えていたのは、西洋の強固な石の文明の礎を脅かす自然が持つ野性のグルーブと、宗教や伝統、王政に縛られた堅牢な文明社会の対立。

自然を征服し支配することで文明を発展させた西洋社会において、ゴッホのように自然の生命力を全肯定することは、痛烈な西洋文明批判でもあったわけです。

自然を征服せず共存する。日本の文化の本質的なものがオランダを通して、絵画を通して、西洋の伝統的価値観に風穴を開けた。それがゴッホだったかもしれません。

ゴッホの苦悩は世界でも稀有な自然の豊かさを持ち母性的な文化のある日本で、西洋文明の輸入によって精神の変革を迫られた日本の知識人が直面した苦悩とほぼ同じなのではないでしょうか。


そして多くの人がゴッホの孤独や苦悩に満ちた人生に共感するのも、日本人がゴッホ大好きなのも、ゴッホが直面した近代的自我の孤独と自然の力の癒しが、ゴッホの人生や絵画にあるからかもしれません。

因習的な伝統や王政、宗教に属していれば、私たちの自我は体制に否が応でも埋没させられます。個人としての自我が必要とされることもなく、様々な集団や組織、集合体の中でしか個人は存在せず、創造性は体制や集団を通して表現されます。

印象派はとても主観的な絵画で、画家個人がどう感じたか、どういう印象を持ったかという絵画ですから、極めて個人主義的で、個人の自由と創造性の解放であり、後に個人の欲望を最大化して幸福を追求する資本民主主義が誕生する源流でもあります。

21世紀の芸術、個人の自由と目覚めは、印象派から始まったと言っても過言ではないかもしれません。そしてそのきっかけが西洋と東洋の出会い、日本の浮世絵が西洋社会にもたらしたインパクトが原点だとすると、世界は、時代は、ただ西洋文明にリードされて進んでいるわけではないのだなと思います。


ゴッホがなぜ迫害されたのか。映画では近年明らかになった新説が採用されているのに驚きました。

無知な子供や封建的な女教師の妨害。悪童による絶命では証拠隠滅のためにゴッホの絵は土に汚されパレットは川へ投げ捨てられます。

同志のはずのゴーギャンも、ゴッホの作風に理解を示しません。

何か悪いことをしていたわけでもなく、ただ絵を描いていた画家がなぜそこまで仕事を否定され、迫害されないといけなかったのでしょうか。


彼らは無意識に、ゴッホが異端者であること、彼らが住みよしとする世界の風穴を開けようとしていることに気づいていたのかもしれません。

ゴッホはドン・キホーテのように文明という幻と戦い、その巨大で強固な敵に対して精神を崩壊させて行きました。

前衛芸術は発表当時多くの無理解や侮蔑に晒され、時には殉教者のように迫害されるのに、後の美術史では正史となる。まるで人類にとってそれが必然だったかのように。何だか随分都合のよい話だなと思います。


シュナーベルの映画では、ゴッホが生前に批評家の評価をちゃんと受けていたこともしっかりと語られています。シュナーベルは大衆の無理解に対して、芸術家と批評家が文化を支え創造していく、芸術のあり方をきちんと描いてる。そして評価されても作品が売れない芸術家の苦悩も。


芸術と批評のコール&レスポンス。近代芸術の基本であり、そう考えると精神の崩壊に苦しんでいても、ゴッホに自殺の意図はなく、まさにこれからという時に愚民によって葬られた。

その構図をゴッホをキリストのように見立てながら、またそれが現代の芸術家の宿命として、シュナーベルは象徴的に描いているように思います。


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