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感想 2021/03/01 池袋ミカド劇場

 劇場はほんのりと暗く、中央ショースペースを挟んだ両隣の席はかなりが埋まっていました。客層としては中高年男性ばかりで、若い女は自分ひとり。おそらくそれ故にけっこう客と目が合ったのですが、女性客も普段はそれなりに居るのだそう。
 池袋ミカド劇場にて、先輩とストリップを観に来ました。ストリッパーといえば、それまで『closer』内でナタリー・ポートマン演じる赤毛のアリスのイメージが強く、クラブ内でのポールダンスに近いものをイメージしていたのですが、わたしたちの行ったそれは完全なるショーパフォーマンスでした。アイドルのよう。

 一人目は宇佐美なつさん。地下アイドル的でした(地下アイドルを観たことはないです)。笑顔が眩しい。若く溌溂としたショートカットの元気さにキュンときます。会場の雰囲気もライブ的になってゆきましたが、これは応援したくなるます。今風のアイドルらしいダンスを終えた後、だんだんと脱衣が始まるのですが、最後に一枚だけTシャツを羽織っているのが魅力的でした。隠れたり現れたり。そこにあるのは生きている肉体。バルト『テクストの快楽』におけるエロス論で出現と消滅の関係、その間隙にこそ魅惑があると語られていた点が、そのまま具現化しているような。その演出がTシャツによって為されるのも、家の感じを想起させられ、いわゆる彼女感、それゆえの占有感や特別感を誘発しているようにも思えました。推せます。
 しかし、人生初のストリップ鑑賞を経て、そんな彼女の肉体に多分のモノ感を覚えた点が個人的には意外でした。それはパフォーマンスに依るものではなく、おそらく照明の結果ではないかと。白の地明かりは平坦すぎて、明晰すぎて、全くもってエロくないのです。劇場に入った時分、宇佐美さんの前のショーを終えたストリッパー(黒瀬あんじゅさん)がファンサービス中で全裸M字ショットの撮影をしていたのですが、その身体の即物性に驚いたのでした。それは私が女性で女性の身体に慣れすぎているからでもあると思うのですが、地明かりの下、艶っぽい陰影を欠いて、ただ差し出された裸は大変にモノ的に思えました。

 次は星野結子さん。
 誇張ではなく、天使のようでした。真っ白な大振りの翼を背負って、ウエディングドレスのような衣装で現れた金髪のふっくらとした女性。二曲目に移ると、動きは一気に軽やかになります。彼女は下半分の重たい衣装を脱ぎ捨てて。全体的に重力感のあるパフォーマンスだったけれど、そこからまた放たれて軽やかに踊るところ、その重軽の変化や緩急に目が離せませんでした。指先のしなやかさを、ショーが終わったのち今に至るまで、覚えています。べつに堕ちているのではなく、天使のままで天使としてエロい感じというのでしょうか。はじめてモノ的じゃない身体、エロさを覚えたように思います。表情といい、鮮烈な艶やかさでした。

 その次は翔田真央さんです。
 一番ストリップ然としたストリップでした。フラメンコ的なラテンのステップを踏みながら、重量感のある衣装から最後裸になるまでの重軽の変化がドラマチックで魅せられます。黒いヒールに黒いベルト。鷲田清一が、黒いガーターベルトのエロス的魅力として白人の白肌の切断を挙げていたことを思い出します。質感のある影を生む照明の当たりといい、魅惑的とはこのことでした。

 次は着物の夢乃うさぎさん。薄桃色の和服に身を包まれた色白の女性。和傘の中から現れるのが印象的でした。秘匿の仕方がうまいのは彼女に限った話ではないですが、とりわけ彼女は和服だということもあり、それが一層際立ちます、、、。帯を解いて重力のままに衣服が落ちるところ、下部分、下の層的な重さと対比される剥き出しの肩。襟足にはじまり肩で止まる脱衣。和服は動きが制限されますが、それがこその良さを活かす脱ぎ方でした。そんなことを考えているうち、不意に彼女がこちら目配せを。そこで見せてくれた笑顔を目にした途端にそんな批評が吹き飛びました。推せます。

 いずれもパフォーマンスとして変わらず興味深かったのですが、ストリップは観るのに結構な体力を要します(ということがわかりました)。
 あのステージの距離の近さと、しかしそれでも残存する舞台と客席の隔たりとの、絶妙なバランス。不思議な時間が流れていたように思います。性器の襞の開閉がファンサービスになっていることなどなど、自分が女性なこともあり、諸部分になんだか滑稽な即物性を覚えましたし、ストリップ文化の中で作法的に形成されている仕草など、興味深い点が目白押しでした。初ストリップショー、新鮮なひとときでした。

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 院試の合格発表の前日に、東京はるかにの後輩と池袋ミカド劇場へ行き、それから下北沢での劇団地蔵中毒の公演を見ました。後者の都合上、一日に四回ある上演のうち、一回目の終盤に入り、二回目も最後まで鑑賞することなく劇場を発たなければならなかったのは残念でした。
 目の前にあるのは劇場と俳優でしかないという殺風景な現実が、嘘くさくなく、あるいはその嘘を受け入れながら舞台の幻影によって乗り越えられること、そのような「舞台」というイリュージョンの成立を、自分は舞台芸術作品の質をはかる第一の指標としています。これを満たしてくれる舞台にはそう出会えるものではありません。そして、斜陽産業といってよかろうストリップショーに、信じられないくらいこの「舞台」を成立させてくれる作家たちがたくさんいることに気が付いたのはつい最近のことでした。
 自分としては、服を脱ぎ自分の裸一つで勝負するという性格から言って、イリュージョンの生成とは通常反対のベクトルをストリップが有していることが、なによりも興味深いのです。演劇とは異なり、ストリップの身体は何物をも表象しないからです。どこまでもむき出しのその裸がなぜ自分の眼を魅せ続けることができるのか、興味は尽きません。

 上の文章は同行した後輩の書いたものですが、彼女がここで感じている殺風景さや即物性はまさに自分が「殺しの美学と裸体について」で論じたところのものでしょうし、親近感や特別感、「推せる」という感情もまた、そこで柳宗悦に寄せて言及した箇所との関連において理解できます。出現と消滅の関係や、「ステージの距離の近さと、しかしそれでも残存する舞台と客席の隔たりとの、絶妙なバランス」は、西村清和さんの論考に登場した坪内逍遥の「徹底的遊戯性」概念を説明するものとして理解できるはずです。

 それにしても彼女の記述は、エロティシズムを感じさせる経験の構造を探ることに貪欲で、自分にとってはとても興味深いものです。
 ストリップショーは、おそらくは観客のエロティシズム、性的な恍惚感を煽ることを第一義としているはずで、自分のように「舞台」の成立を望む眼は邪道だろうと思います。上記の「殺し~」の論考も、書き上げ、発表したのちすぐに、この点で欠陥があることに思いが至りました。「舞台」はエロティシズムを生成する運動の副産物に過ぎないはずです。愛着形成と「徹底的遊戯性」は、観客がこの運動を経験する構造の一面を取り出したに過ぎないはずです。

 そこで今回着目したいのが、彼女が星野さん、翔田さん、夢乃さんのいずれに対しても言及している「重力」の要素です。
 素早く軽やかなムーヴは、無重力のイリュージョンを立ち上げます。目の前にある現実の肉体の特性よりも、それが生み出す鮮やかな動きの美しさに、観客はより目を奪われることになります。一方、重力を強調することは生身の身体を表出することでもあり、いずれはこの契機を踊りに組み込まないことにはストリップはその本願を達成することができないのではないかと思います。後輩の文章で星野さんについて触れられているように、「重軽の変化や緩急」、その押し引きこそが生身の身体にエロティシズムを付与するもののはずです。
 無重力のイリュージョンにおいて演者は蜃気楼ですから、観客とは異なる地平に立ちます。対して重力下の演者は観客と地平を共有する一つの具体的な肉体として踊りを展開することになります。後輩の胸を射た夢乃さんの目配せはこのような同一の地平でこそ可能になるでしょう。
 ダンスの歴史としては、このようなイリュージョナルな運動を生み出すモダン・ダンスへのカウンターとして、むしろ演者のリアルな身体を露出するダンスが1960年代ごろに登場しました。
 ストリップとたとえばポストモダン・ダンス、それからその流れを受けたコンテンポラリー・ダンスやノン・ダンスらは、ともに学ぶべきところがあるはずです。たとえば完成を目指さずむしろプロセスを重視するポストモダン・ダンスの失敗の身体、即興性の強い遊びやゲーム、タスクの中に置かれたむき出しの身体は、観客の目を生々しく釘付けにし、劇場全体の一体感を高めながら、個々のパフォーマーの身体の持つ特性を引き立てることと思います。

 ストリップと現代舞踊の関係については、尼ケ崎彬さんが『ダンス・クリティーク』の第一部4節で展開されている議論が参考になります。「男らしい身体」や「女らしい身体」という「ジェンダーの身体」と、「オスの身体」のような「セックスの身体」の二つがあるとして、現代舞踊は前者を引用することはあっても、基本的には舞台から排除してきた。それはダンスが現代芸術の一分野であろうとした、20世紀の流れの帰結として、高級と低俗の二分法の積極的な引き受けが行われたからである。そこでは第一に舞台と客席の分離、第二に芸術的舞踊と娯楽的舞踊の分離が行われた。そしてとくに前者の条件、見る者と見られる者、踊る者と踊らない者との切断が、今日では見直されてきている。
 そうであるとすれば、舞台と客席の分離を問題にせず、「ジェンダーの身体」を温存しながら娯楽的舞踊として発展してきたストリップの表現に、現代舞踊の作家たちが表現の拠り所を求めることも、あるいはその逆の行為にも、大きな可能性を認めることができるはずです。

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