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AD535年「日本史上最悪の飢饉」 クラカタウ大噴火爆音地球7週 全世界の半数以上が死亡 宣化天皇那ノ津に軍事基地ー3千年に一度の絶滅危機に遭遇した天皇68才の決断! 任那へ豪族派兵


日本の有史後、もっとも重要な記憶が消えていた!



      AD535




  日本全人口の半数以上が死

日本人が大量死していた、、。だが、それが消えている?


 

   仏教伝来AD538 背景



事実

 インドネシアのクラカタウ火山が大噴火した。轟音は地球を7周。成層圏まで舞い上がった粉塵は地球を覆い、太陽がない世界が始まった。




 いくら探しても見つからない。
日本の火山学者はなぜ、わかる様に記録しなかったのだろう? 
 日本史でももっとも重要な記憶のはずー歴史学者はどうして?

 探していたものは、院大卒の美人リサーチャーがヒントを見つけてくれた。



事実

『日本書紀』に書かれている宣化天皇の詔(みことのり)
 
 に次のように、



 「食は、天下の根幹である。金が豊かにあったとしても、飢えをいやすことができない。真珠が千箱あったとしても、寒冷から人を救うことができない。そもそも、筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所で、行き来の関門となっている。

 海外の国は、海の様子や天候の状況をうかがって、この地に到来する。そのため応神天皇の時代から、私(宣化天皇)の代まで、稲穀を収蔵してきた。凶作に備え、賓客を接待する際に用いてきた。国の安泰のために、これ以上のものは、ありえないだろう」

 茨田(まんだ)(大阪府寝屋川市・守口市・門真市周辺)の屯倉(みやけ)、尾張国の屯倉、新家(にいのみ)(三重県一志郡あたり)の屯倉、伊賀国の屯倉などから稲穀を運ばせて、官家(みやけ)を那津(なつの)(福岡市)のほとりに建物を建てることを命じた。


 また、筑紫・肥(ひのくに)(長崎県・熊本県)・豊(とよのくに)(福岡県東部・大分県)の3国の屯倉は、分散して立地していて、輸送に不便で緊急の時に役に立たないので、各地の屯倉から那津のほとりに稲穀を集めて、それらを収納する建物をつくることも指示した。


 別の資料では飢餓で死者が路上に捨て置かれたままだという。



   3千年で最大の飢饉


宣化天皇が即位したのはAD536年、クラカタウ火山噴火の翌年。68歳という高齢で天皇に即位した。


先代の安閑天皇が死去したとき、子どもがなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した。筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位元年(536年?)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれる。

また、安閑・宣化朝は父継体天皇死後すぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変)もある。
いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれる。

高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、目立った事績はない。人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたとされる。

5月の詔で食に関することを述べているのは、世界的に引き起こされた536年の火山噴火による寒冷化の影響に言及したものではないかと考えられる。

正確な、


 以上ーこれ以上の記録は見つからなかった!




アイスランド

西暦535年 日本

 記録に残る史上最悪の年は西暦535年という。この記憶は世界各地に残されていた。

だが、日本にはどうしてないのか?
おかしいと思った人は多いはず。ただ、ネットから消えたのではない。

日本人の脳から消えてしまったのだった。Google 検索にプロンプトができないのが、原因?



西暦535年、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡にあるクラカタウ火山が大噴火した。
それまではスマトラ島とジャワ島はひとつの島だったのだ。


 世界各地に異常気象をもたらした。 大噴火は、最初、水蒸気と火山灰が大気中に巻き上げられ太陽光を遮り、世界各地を豪雨が襲った。


リサーチャー
 535年のクラカタウ火山の噴火によって北アメリカで噴火が起こった場所については、はっきりとは分かっていません。当時の北アメリカの火山活動についての正確な記録は残っておらず、地質学的な証拠から推測されています。
一部の研究者たちは、535年の噴火によって北アメリカ西部にある火山が噴火したと推定しています。これは、当時の地層に含まれる火山灰の層が西海岸から発見されていることや、近年の地震活動などの観測結果から導かれたものです。ただし、これはあくまでも推定であり、確定的な証拠は存在しません。
そのため、北アメリカでどのような火山が噴火したのかについては、今でも謎が残っています。

リサーチャー
エルサルバドルでの火山噴火については、現在でも活発な活動が続いており、多くの噴火が観測されています。また、エルサルバドル周辺には過去の噴火によって形成された火山岩が多く存在しており、地質学的な観点からも噴火の痕跡が残っています。
具体的には、エルサルバドルにあるサンサルバドル火山は、過去に数多くの噴火を起こしており、火山活動が継続しているために観測が比較的容易であると考えられます。また、エルサルバドルの地質構造は、プレート境界が近く、活発な地震活動も起こっており、これらの観測結果から火山噴火が起こる可能性が高いと判断されていることも、噴火がわかった理由の一つと言えます。
以上のように、エルサルバドルでは火山噴火が頻繁に起こり、その活動が地質学的にも観測可能であるため、噴火がわかったと考えられます。

西暦535年から536年にかけて起こった大飢饉について、日本書紀には以下のような記述が残されています。
「天皇が宮中において嘆息して仰せになりました。『近頃、天下は凶作である。人民の衣食が得られなくなり、人々は荒野にさまよい歩き回って、命を失うものが後を絶ちません。』

この記述は、大化改新前後に編纂された日本書紀の「崇神天皇紀」に見られるもので、天皇が飢饉による苦しみを嘆いた様子が描写されています。
また、この時代には、飢饉による被害が中国や地中海地域など世界各地で報告されており、異常気象が原因であったと考えられています。
この時期の寒冷化は、ヴァイキングの活動にも影響を与え、史料には「黒い太陽」と呼ばれる現象が記録されています。







  全地球を覆った

黒い太陽と地球



 人類の歴史の中で「生きる時代として最悪の年」としては、ヨーロッパ人口の3分の1~3分の2が死亡したとされる黒死病が大流行した
1347年、ホロコーストのあった1941年~1945年の間、そしてインフルエンザが大流行し1億人の死者を出した1918年などが候補として考えられます。
しかし、ハーバード大学の研究者は、多くの人が考え至らなかったであろう「西暦536年」を「最悪の年」として挙げています。536年に何が起こったのかが、最新の研究で詳しく示されました。


ハーバード大学の考古学者であるマイケル・マコーミック博士は536年について「生きるのに最悪の年ではなくとも、最悪の期間の始まりだった」と述べています。

西暦536年は東ローマ帝国でユスティニアヌス1世が統治して約10年ほどたった頃。多少の小競り合いはあったものの、伝染病が広まっていたわけでも、大虐殺があったわけでもありません。



しかし、謎の霧が空を覆い太陽の光を遮断し、地球上の温度が急降下したことから、536年以降は何年も世界中で干ばつ、不作、食糧危機といったカオスが続きました。

 夏でも気温は1.5~2.5度ほどしかなく、中国では雪が降ったとされています。歴史家のプロコピオスは「多くの恐怖の前兆が、今年1年の間で起こりました。太陽はまるで月のように年中明るさのない光を発し、日食のようでした」と記しています。

南極の氷床コアやグリーンランドの樹木の年輪、そしてその後の火山活動といった証拠から、536年には大規模な火山噴火があったことが示されているとのこと。これらによって短期間のうちに世界中の気温が低下し、飢餓がまん延したのです。

■西暦535年または536年、クラカタウ
クラカタウはインドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島。
535年(または536年)に噴火した。ちなみに、1883年にも噴火し津波を引き起こした。デイヴィッド・キーズの著書「西暦535年の大噴火」が詳しい。

この噴火によりローマ帝国の分裂の原因となる。また中米のテオティワカン文明にも影響を与え、民衆の反乱を引き起こして崩壊の原因をつくったとされる。また書籍では中東、東ローマ帝国、ヨーロッパ西部でのペストの発生状況がまとめられている。それによればペスト流行は一度だけでなく、西暦540年~西暦700年頃にかけて何度も発生している。

■西暦536年、エルサルバドル
536年、中央アメリカ、エルサルバドルの火山が爆発したとされる。<参考>で紹介するサイトや、YOUTUBEの動画が詳しい。特に参考サイト④を確認頂きたい。

■世界中でおこった気候変動とペストの流行
クラカタウ、エルサルバドルと立て続けに噴火が起こる。また火山の発生、飢饉、死者が増える、ネズミが繁殖、ペストが増えるまでには数年のタイムラグがある。さらには1700年前のことでもある。このため2つの火山のどちらの影響かは区別しづらい。


ローマ帝国3000万ー5000万人死亡


 エルサルバドルの噴火を紹介しているソースによれば、火山の噴火により火山灰が太陽を覆い、空が薄暗い状態が少なくとも1年間続いたとされる。これが気温の低下をもらたし、結果、飢饉とペストの流行をもたらした。ローマ帝国では約5000万人ほど死亡したとされる。死者を健常者が運ぶなどし、間違った対処で感染が拡大したそうだ。ペスト・東ローマ帝国で流行(死者数3000万~5000万人・541~542年)
■アジアへの影響
中国の「南史」には空から黄色い灰が降って来たという記述がみられるとされている。また夏に雪も降ったとされる。朝鮮(韓国)では当時の人口の7~8割が死亡したのではないかとされている。
■古代後期小氷期
536年~660年頃までの寒冷化を「古代後期小氷期」という。「木の年輪」の成長具合で判別できるそうだ。その木の幅が狭いと日光や水の影響があったとされる。
■日本では疫病流行
少なくとも570年、585年で記録されている
なぜ、存在と生きた年数が異常な天皇の言葉しかないのか?

わたしが探していたもの
宣化天皇が言葉を残していた❣️



    仏教伝来の理由



・仏教の伝来が火山噴火に伴う気候変動によるペストの流行が一致している
・過去の陰謀論には間違いも多いのではないか。聖徳太子は622年の死亡だが、太子の妻や母も同じ病で倒れている。さらに斑鳩宮が焼かれている。それは感染症まん延の対策の結果であり、決して当時の蘇我氏などが陰謀によって暗殺した、などではないように見える。


事実

クラカタウ 噴火
エルサルバドル 噴火
アイスランド 噴火
北アメリカ カリフォルニア? 思い違い





参考文献

Alpine ice-core evidence for the transformation of the European monetary system, AD 640–670 | Antiquity | Cambridge Core
https://www.cambridge.org/core/journals/antiquity/article/alpine-icecore-evidence-for-the-transformation-of-the-european-monetary-system-ad-640670/0727B4230C5DA92634B6251B9FBD3898

Why 536 was ‘the worst year to be alive’ | Science | AAAS
https://www.sciencemag.org/news/2018/11/why-536-was-worst-year-be-alive

Scientists Have Determined The Worst Year to Be Alive in Human History
https://www.sciencealert.com/scientists-have-determined-the-worst-year-in-human-history





第Ⅱ幕

エルサルバドル🇸🇻






第Ⅲ幕

536年、謎の霧が太陽から光を奪う


 その年、ヨーロッパ、中東、アジアの一部で謎の霧が垂れ込め、18ヶ月に渡って昼夜を問わずに暗闇にしてしまった。

 「1年中、まるで月のように太陽の光から輝きが失われた」と東ローマ帝国の歴史家プロコピウスは記している。

 536年の夏の気温は1.5~2.5度下がり、過去2300年間で最も寒い10年が始まった。

 中国では夏に雪が降り、作物は枯れ、餓死者が出た。「降ってきた黄色い塵を手ですくい上げることができた」と『南史』に記されている。

 朝鮮半島では雷が鳴り、疫病が大流行した。アイルランドには、536~539年にかけて不作が続いたという記録がある。

 さらに541年、エジプトにあるローマ帝国の港町ペルシウムを腺ペストが襲った。

 「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれるようになったそれは、とんでもない勢い蔓延し、東ローマ帝国の3~2人に1人の命を奪い、帝国の崩壊を早めた。

謎の霧の正体は大規模な噴火による火山灰だったことが判明
 この暗黒時代と呼ばれる時期を覆ったミステリアスな霧の原因は、長い間謎とされてきた。

 しかしマコーミック氏らがスイスにある氷河を解析した結果、その犯人は536年初めに起きたアイスランドの噴火によって、北半球中に撒き散らされた火山灰であることが分かった。

 さらに540年と547年にも大きな噴火があり、これにペストの流行が追い打ちをかけたことで、ヨーロッパ全土の経済活動は640年まで停滞することになったのだ。

異常な夏の気温低下と火山噴火に関連性
 1990年代の木の年輪の研究によって、540年前後の夏は異常なまでに寒かったことが明らかになって以来、その原因の究明が進められてきた。

火山が噴火すると、硫黄や蒼鉛といった物質が大気中に舞い上げられ、それがエアロゾルの幕となって日光を反射する。

 気温が低下するのはこのためだ。

 スイス、ベルン大学のミヒャエル・シグル氏らが、グリーンランドと南極から採取した氷のデータを年輪と比較すると、過去2500年で生じた異常な冷夏のほぼすべてで、事前に火山の噴火があったことが明らかになっている。

 シグル氏らによると、535年末か536年初め、次いで540年におそらく北アメリカで生じた大規模な噴火によって、当時の日照量の低下と寒冷な気候を説明できるだろうという。

最新の高解像度機器で発見された火山性ガラス粒子
 一方、マコーミック氏と一緒に研究をしたアメリカ・メーン大学のポール・マエフスキ氏は国際的なチームを率いて、2013年にスイスアルプスのニフェッティ峰氷河で採取した氷床コアを調査した。

それは72メートルもの氷のサンプルで、2000年分の火山灰、サハラ砂漠の砂嵐、人間の活動の痕跡が残されたものだった。

 研究チームはこのサンプルを、レーザーで120ミクロン(積雪数日~数週間分に相当)単位で区分する最新の機器を用いて分析。過去2000年の間に生じた砂嵐、噴火、鉛汚染を1ヶ月の単位で明らかにした。

 その結果、536年の春の氷から火山ガラスの粒子が2つ発見された。

 これをX線で調べると、ヨーロッパの湖や泥炭湿原ならびにグリーンランドの氷床コアで以前発見されたものとよく一致していることが分かった。

 そして、以前発見された粒子はアイスランドの火山岩と似ている。

 こうした化学的な類似点は、スイスで採取された氷床コアの粒子がアイスランドの火山から飛んできたものである可能性を窺わせる。

 現時点では、噴火が生じたのが北アメリカだったのか、アイスランドだったのか断定できない。

それでも、536年の風と気候が噴火の煙を南東へと流し、ヨーロッパ全土を横断し、さらにはアジアにまでいたらせたに違いないと、メーン大学のアンドレイ・クルバトフ氏は話す。

 これが太陽を遮った霧の正体なのである。

それから1世紀後、明るい兆しが見え始めるが・・・
 それから数度の噴火が生じた1世紀つまり100年の後、氷の記録からは明るい兆しを見ることができる――640年に大気に含まれる鉛の量が一気に増えたのだ。

 銀は鉛鉱床から精錬される。つまり鉛は銀の需要が増加し、経済が復活したサインである。

 その次の鉛のピークは660年で、これは新しく興った中世社会の経済に銀が大量に流れ込んだという痕跡だ。

 このことは、取引が増加するにつれて金が不足するようになり、金貨から銀貨主体の経済に変化したことを示している。

 イギリス・ノッティンガム大学のクリストファー・ラヴラック氏によると、それは初めて商人階級が台頭した印であるという。

 氷の記録には、それからさらに先の時代、またもや暗黒時代がやってきた痕跡も残っていた。

 1349~1353年に大気中の鉛が消えてしまうのだ。

 黒死病――ペストの大流行によって、経済は再び崩壊した。

 人生山あり谷ありというが、人類は、ランダムに自然に試練を与えられながら、なんとか今日まで存続している。

 米カリフォルニア州噴火説を否定
アイスランド 噴火

CNN) 人類にとって史上最悪の年月は、大噴火や異常気象、腺ペスト流行に相次いで見舞われた6世紀半ばだった――。歴史学や科学の専門家がアルプスの氷河の氷を調べ、そんな研究結果を発表した。
始まりは紀元536年だった。大規模な火山噴火で発生した巨大な噴煙が北半球を覆い、気温が低下して不作と飢饉(ききん)を招いた。
542年になると、寒さと飢えに苦しんでいた東ローマ帝国を腺ペストが襲った。
この研究結果はこのほど、英ノッティンガム大学と米メーン大学気候変動研究所の研究チームが考古学誌アンティクィテイに発表した。
研究チームはスイス・アルプスのニフェッティ峰氷河の氷を分析し、過去2000年あまりの間に堆積(たいせき)した大気汚染物質を特定。その結果、大噴火が起きたのは、それまで定説とされていた米カリフォルニア州ではなく、アイスランドだったことを突き止めたとしている。
火山噴火と542年の腺ペスト流行による欧州経済の停滞は30年以上も続き、575年になってようやく回復の兆しが見え始めた。
この年になると、氷に閉じ込められていた大気中の鉛粒子の濃度が上昇していることが判明。鉛は銀の精錬に使われていたもので、鉛粒子の増加は、貨幣を鋳造するため貴金属の需要が再び増大したことを裏付ける。
640年になると欧州の景気は急成長に転じ、660年にかけて経済は大きな転換期を迎えたと研究チームは解説している。



[韓国ソウル]

6世紀の北米の火山爆発が高句麗に飢饉をもたらし、国際情勢を変えたのだろうか?

気候が韓国歴史に及ぼした影響にスポットライトを当てる学術大会が開かれた。韓国歴史研究会とソウル大学奎章閣韓国学研究院は、学術会議「人新世と生態環境史:韓国気候史の模索」を5月30日、ソウル中区(チュング)の大宇(テウ)財団ビルで開催した。

韓国史における環境の影響に関する研究は、古代に上るほど資料不足などが原因であまり進展がなかった。会議の発表文「韓国史で『536年の火山』の理解と適用」(ソ・ミンス=建国大学史学科博士修了)は、6世紀の異常気候が作った災害を扱った英国の著者・デヴィッド・キースなどの海外研究を紹介後、韓国ではどんなことが起こったのかを追跡した。

発表文によると、536年ごろ、欧州と中東一帯で日光が弱まったという記録があり、北半球各地の木の年輪はこの時期の気温降下を示す。モンスーンの弱体化により乾燥した天候が続いた。中国にはこの時期、夏に雪や霜が降ったという記録があり、541年に新羅には、3月(旧暦)に雪が一尺も降った。中国北朝と高句麗で霜や干ばつ、飢饉、酷寒、病虫害が起こった。

寒冷乾燥した気候は550年頃まで続き、農業生産量は減少した。三国史記の高句麗本記には、536年の飢饉による賑恤(困窮した人々を救済する)と王の巡撫(複数の場所を見て回るながら民を慰める)が記録されている。536、549、550年には、人が人を食う惨状が起きたという。

異常気象は、535、536年ごろに北半球で火山が大規模に噴火したためだという意見が説得力を得ている。「犯人」は、北米やアイスランド、日本などの火山の一つであると学界では見ている。発表文は、「『536年の火山噴火』は、中国と韓半島一帯に急激な気候の寒冷乾燥化をもたらし、慢性飢饉が広範囲の人口移動を誘発しただけでなく、北方遊牧民の離合集散に拍車をかけた」と、韓半島周辺の国際情勢の再編を促した可能性を提起した。

同日の会議で、キム・ミソンKAIST人文社会科学研究所研究員は、朝鮮の顕宗(ヒョンジョン)、粛宗(スクジョン)時期の異常気象によって発生した大規模な流民がソウルに集まって、朝鮮後期の商業発展に影響を与えた可能性もあると明らかにした。この他「1939年、朝鮮大干ばつの様子とその影響」(コ・テウ=ソウル大学国史学科教授)、「東海明太の回遊路の移動と南北の冷戦」(チョ・スリョン国史編纂委員会編史研究社)が発表された。



事実
その年の日本には噴火の記録はなかった



火山の冬(かざんのふゆ、: volcanic winter)とは、火山の爆発的な噴火によって、火山灰や霧状の硫酸太陽光を遮り、地球アルベドを上昇させることによって温度が低下する現象のことである。長期間に及ぶ冷却効果は主に、大気上層部に構成されるエアロゾル中の硫黄化合物の増加が原因である。





事実

    宣化天皇の贈物

        約束の地

   西暦536年にもっとも重要な地

 

 

      九州 那の津


 筑紫・肥(ひのくに)(長崎県・熊本県)・豊(とよのくに)(福岡県東部・大分県)の3国の屯倉は、分散して立地していて、輸送に不便で緊急の時に役に立たないので、各地の屯倉から那津のほとりに稲穀を集めて、それらを収納する建物をつくることも指示しました。


那津は、福岡市を流れる那珂川のかつての河口付近とみてよいと思われます。那津の官家は、上に記したように九州地域の稲穀を収納するとともに、朝鮮(韓)半島から倭国へ来航してきた海外諸国の使節らの到着港であったので、当然のことながら、難波(なにわ)津(大阪市)と並ぶ国家的な要港でありました。



  那ノ津官家(なかのつみやけ)

  日本で唯一設置された軍事外交の要衝

西暦536に陸上にあったという事は、ほんの100-200年前の邪馬台国は、今も陸上にあるという事です




   邪馬台国は、約30の国々からなる連合政権の都というべきものでした。畿内説では、その30の国が、近畿地方を中心に西日本全体を含む地域にあったとしますが、それではあまりに分散しすぎで、各地のこの時代の遺跡の実態とも合いません。むしろ当時の九州に確実に存在した伊都(いと)国(現、福岡県糸島市、福岡市西区付近か)のように、この時代の国は後の郡に相当する規模のもので、北部九州だけでも30を上回る国がありました。

そして邪馬台国連合は、別の勢力である男王卑弥弓呼(ひみここ)率いる狗奴(くな)国の勢力と、倭人社会の覇権をめぐって戦っていました。当時の戦いに不可欠なのが、鉄製の武器です。この点、纏向遺跡をはじめ、畿内の主要遺跡から鉄製品がほとんど出土していないのに対し、北部九州の遺跡からは豊富に出土、量で比べると畿内の100倍にもなります。これは鉄鉱石の産地・朝鮮半島との交流があったためで、他にも中国の貨幣や鏡などが出土する遺跡も北部九州に多く、邪馬台国が国際性豊かであったことと合致します。

さらに北部九州では、弥生時代の半ば(紀元前2世紀末~紀元前1世紀前半)頃より、高い社会的地位をもった巫女(みこ)が現われました。強い霊能力を持つと認められたシャーマンです。福岡県糸島市の三雲遺跡(紀元前1世紀末頃)からは男性と女性の墓が発見されましたが、これは夫婦ではなく、国を支配した男王と巫女王の墓であることがわかりました。つまり男王が世俗的権威、巫女王が宗教的権威という二重の政治形態が用いられており、邪馬台国の卑弥呼が巫女王、政務を司るのが弟であったことと合致するのです。

なお九州説における邪馬台国の位置は、吉野ヶ里遺跡も候補ではあるものの確定的とはいえず、福岡県南部の久留米市、八女(やめ)市、みやま市(旧山門〈やまと〉郡含む)の周辺を想定する研究者が少なくありません。これはその後もこれらの地域が、北部九州において一定の勢力を保ち、527年には大和政権に抗する「磐井(いわい)の乱」が起きているからです。ただし発掘が進んでいないため、裏づけとなる証拠は見つかっていません。

『魏志倭人伝』には卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは、ひと言も記されていません。あくまで倭の女王であり、240年に魏が卑弥呼に授けた金印紫綬にも「親魏倭王」とあります。ここからも卑弥呼が30の国から成る連合政権(倭国)の巫女王であり、邪馬台国は卑弥呼が住まう中心都市の名前であったことがうかがえます。


一千を超える邪馬台の推測記事がネットにあるが、証拠が無いのに思弁が邪魔して消えていた古代日本の記憶。

 エドウィン・ハッブルが「観測すべき天体がある限り、思弁に耽るべきではない」と科学者の精神を残しています

これがGoogle検索の弱点で困っていた人は多いはず😭 プロンプト機能がないのが理由です。誰もプリンテストやゲッティイメージズの写真なんか見たくないですよね? それと同じで、YouTubeの気持ち悪い顔のアップの広告動画を何度も見さされるのも困りものです。


 これを一切合切、薙ぎ払ったのが、OpenAIのChatGPTです。

独占すると、困ったことを修正できないのがアルファベットグループです。

 なぜ、OpenAIのサム・アルトマンCEOは日本を訪れ、岸田首相に面会を求めたのでしょう?

 Googleに日本の人材育成に1000人規模の派遣を決めた日本の近未来成長政策。
 アジア投資銀行をフィリピンに設置した過去の日本の栄光。
 情報弱者を払拭すため外務省人員を近い未来に向けて8000人体制にする日本政府


 これら以上に重要なのが、OpenAIへの協力です。日本政府は日本企業とともに、Googleに行った以上の投資をする必要があります。

 なぜなら、そうしなければ、戦略兵器にAIが利用され、今の軍事兵器投資など泡と消える。外務省人員8000人もAI最新鋭機に敵わない!

 もっとも大切な決断を岸田首相は迫られています。この音頭を取らなければいけない。


 宣化天皇の時と同じで、それほど、時代が急変してしまった、、。



#OpenAI  #ChatGPT  #邪馬台国 #卑弥呼 #日本史 #博多



                DIAN





 この記事はDian3の記事ですが、日本のジャーナリストなぜ、サム・アルトマンさんが日本に来たのか気づいてないので、急いで、最終稿を繰り上げました。


 たくさんの事を解説しなければなりません。
北朝鮮の飢餓地獄を思いだしてください。
博多湾に食料中継庫を築くという事は外交と同時に軍事基地を整えて戦争してでも食糧を集めろという事だったのです。

 金が数百満貫あったとしても飢えは癒せない。太陽は月あかりほどの鈍色で、10年間も作物が収穫できるない。


        死屍累々

 他国と戦って食糧を集めろ、奈良へ運べという指示です。事実、朝鮮半島の任那に軍を派兵していました。有力豪族2名でいわば将軍クラスです。朝鮮南部に大和朝廷の直轄地があったという事実です。



Dian2


Dian1


このストーリーは6カ月後、壮絶な発見につながりました。


バンコク駐在記者。ミャンマーのヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。ウィルス戦争取材に呼び戻され、世界最前線で戦うためコロナウィルスの突然変異に迫る😂もし、頂上に立てなかったら、日本は中国から千年の隷属国家に貶められます、戦いのすべてはコロナ感染で苦しむ人々のために❗️