バルザック
バルザックは、
人の性質を、巧みに言葉にする。
例えば:
傷つけない言葉によって、
性質の細部が描かれている。
読んでいる方も 嫌な表現がなく、読み易い。
読者への問いかけも、
わざとらしい所が無い。
バルザックの「谷間の百合」の文章には
太宰治の「斜陽」と同じ表現が出て来る。
太宰もこの本を読んだのだろう。
そう思いながら読み進めると、
一層面白くなる。
世界文学全集のバルザックの巻には、谷間の百合とゴリオ爺さんが収録されている。
この記事を4年前に書いたと記録があった。この4年間 気になっているセリフがあった。
私はゴリオ爺さんに出てくる医者の卵(名前は忘れてしまっている)のセリフ「人間が認識できるのは、頭の先から足の先までのことに過ぎない」に感銘を覚えた。
ゴリオ爺さんは若いころに製麺所で儲けたお金を、2人の娘に渡し続けた。最後には娘たちがゴリオ爺さんの所へ押しかけて奪っていく。
ゴリオ爺さんは一文無しになって死んでしまう。
その際、主人公の若い青年と医者の卵の青年でゴリオ爺さんの葬式をする為、お金を出し合う場面でのセリフだ。
ゴリオ爺さんの娘への言葉に違いなかった。娘たちは分不相応の夢を見ているがために、一番大事なものが無くなってしまった。体の感覚が無いのだと言いたいのだろう。
人間には固有の体の感覚が備わっている。
それを失くしてしまってはいけないと語っている様だった。
なぜこんな事をいまさらになってここに書き留めておきたかったのかというと、
先日、「クイーン・シャーロット」という映画を見た際に、シャーロット王妃が、木に実っているオレンジを「今後は自分で採りたい」と従者に言ったところ、オレンジを採って王妃に渡す係りの者たちが解雇され、
王妃は心を痛めたが、言ってしまったものを今さら取り消せなかった。
王妃は私の幸せとはこの国の幸せのためにあると何度も言っていた。
王様の方は、心を病んでしまっていたが、シャーロット王妃は違っていた。
人は自分自身の幸せを願って生きている。
自分の体の感覚を失くしてしまっては、生きている甲斐もない。しかし、生きていると、何かを任されているような事が起こる。その時の精神の働きがどうなっているのか、客観的に見つめるのが困難な時もあるのだ。
私がそのようであった時に、
「人間が認識できるのは、頭の先から足の先までのことに過ぎない」
この言葉が心に響いたのだろう。
読者の方に、この言葉で体が取り戻せたら幸いです。
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