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ゴッホやピカソの絵が、娘の絵にかなうはずない

*昨日、ちいさな友達から手紙のような絵をもらいました。ぼくたちの絵本の展示にいつも来てくれる小学生で、たった二回の展示でしか会ったことがないのに、おぼえていてくれた。それだけでもうれしいのに、昨日のあるイベントでぼくもいることを聞きつけて、手紙のような絵を送ってくれました。それがもう、とんでもなく良い絵で、とんでもなくうれしかった。「ありがとう」ということばが自然に出るくらい、そして「ありがとう」ということばじゃ足りないくらいにうれしかったのです。

そしてまた、その絵が上手いんだ。小学二年生ってこんな絵が上手いの?って思うほどに。ノートに宿題をやっている絵なんですけど、宿題である足し算の筆算では、答えを書くところに消しゴム跡があって。ノートの上に転がった鉛筆と絵にも、影がついてあって。ノートには1問目、2問目、4問目、5問目が描いてあり、3問目を飛ばしてるんですよね。これは「早く遊びに行きたくて、忘れちゃってるんだよねー」と、その子が我慢できずに早々にネタバラシをしてくれた。それを聞いたぼくは「あっはっは」とクラムボンみたいに声をあげて笑ったよ。

そして、上手い以上に、いい絵なんだ。これが本当にいい絵なんです。その「いい」は、絵の上手さとは別のところで生まれている気がするんですよね。その手紙のような絵をまじまじと見つめながら、「ゴッホやピカソの絵が、娘の絵にかなうはずないよ」と、ぼくは子供もいないのに思ったのです。気の早い親バカで、ごめんね。

考えてみりゃ、そらそうだ。ゴッホやピカソや知らない誰かが描いた絵に感動することはしばしばある。けれどやっぱり、自分の子供が描いてくれた絵には、それらは当たり前にかなうはずがないんですよね。比べること自体がお門違いだけれど、それでもやっぱり、かなうはずがないんですよ。その事実は、ぼくたちが今を生きていることの何よりの証明で、あらゆる関係性の中で息をするぼくたちのすべてなんじゃないだろうか。

手紙っていいな。思えば「手紙」は、暮らしをつづるものなんだな。


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