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愛とか芸術とか金とか

*昔の自分がそうだったからか、理由は定かではないが、僕はとにかく「愛」とか「アート」とか、単体ですっごい価値のありそうなことばをこれみよがしに使う人が苦手だ。アレルギー反応かと思うくらい、それはそれは苦手なのである。「それは愛だね」とか「アートだね」なんて言われると、「愛」(アート)って、いったいなんなんだよ!?と胸ぐらをぐいっと掴んで問い詰めたくなる。いやそこまではない。せいぜい心の中で質問している程度だ。

「愛」だとか「芸術」だとか「金」だとか「性」だとか、その言葉ひとつで価値のありそうなものって、けっこう怖いと思うんですよ。だって、実態が分からないじゃないですか。愛も芸術も金も性も、なんだかわからないのに、納得してしまうような強さと恐ろしさがあるわけです。「愛だね」と言われれば、思わず「愛なのか」と腑に落ちてしまいそうなね。そーゆーものほど、バラバラにして、再分解して細分化して考えたくなってしまうんだよなぁ。

例えば若い頃の男の子は「やりたい」と思っているわけだ。そして僕も、かくいうその1人だった。ひたすらに「やりたい」と思っているけれど、じゃあその「やりたい」の正体というか、内訳みたいなものって知らないんだよなぁ。優しくされたいのか、さみしいのか、認められたいのか、溜まっているのか、癒されたいのか、、、。それらをわからずに、ただ「やりたい」という言葉に収束しているわけである。今思い返してみれば、「やりたい」の中にもいろんな感情や動きがあるし、それはもちろん人によってちがうと思うよ。

ってのが「性」の1ページの中だけでもあるわけでさ。これが「金」とか「愛」とか「芸術」にも何ページもの分量であると思うんだよ。自分たちが勝手に1ページで、1行でまとめてしまっているようなものは、本当はつらつらと書き綴りたい何かなのかもしれなくて、そこをきちんと「読みたい」と思うんだよなぁ。みんなに通ずる言葉も大事だが、それに騙されちゃいけない。

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