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いつかどこかで終わるのだ

*福岡の中心地が去年より軒並み再開発されていることを、福岡出身のデザイナーから教えてもらった。その中には僕が知っている場所もあり、有名な場所も含まれていて、それらがすべてあっけなく取り壊され、外資系のホテルが建つのだという。しかもそのプロジェクトのロゴがクソダサい。クソをつけたくなるくらいダサい。「福岡のデザイナーやクリエイターたちは軒並みショックで、街を離れようかなと思う人もいるくらいです」とその人も言っていた。僕には故郷という感覚はないが、言っていることは少しわかる気がする。

「イズム」という有田焼で出来た壁でつくられたカルチャービルがあったそうだが、それも取り壊されるそうだ。調べてみると、僕でもすぐに分かる外観と場所、中でやっている展覧会に遊びに行ったこともあった。良い建物だった、と記憶している。それが無くなってただのホテルになるのは、たしかに寂しいことこの上ない。資本主義や経済合理性にすべてが回収され、しかもそれは国民では太刀打ちできない大きな流れとして突如やってくる。そのことはたしかに少し怖く思えた。

僕が18歳まで住んでいた街は、商店街と市場が2つもある良い感じの下町だった。今ではその市場は2つとも取り壊され、高層マンションが立つのだという。1階にあたる場所が魚屋だったため、生臭さがエントランスに立ち込める高層マンションになるのだとか。思い入れはないがさみしくはなった。先日、大阪にある大好きなバーも閉店した。賃上げに耐えきれなかったためだ。”いい”場所が次々と無くなっていく。もちろん、ずっとこのままでいられるわけなんてないので当たり前といえばそうなのだけれど、だからこそ人は「ずっとこのまま」を夢見てしまうのかもしれないし、「ずっとこのまま」でいることに恐怖を感じてしまうのかもしれない。

変わらないものなんてない、と名言風にいうのは誰でもできる。しかし、変えられてばかりで本当にいいのか?という思いもある。太刀打ちできない相手かもしれない。でも、それでもなんか、一発くらい喰らわしてーよな、みたいなことを友人と話していた。「いつか自分たちが起こした小さな波で、世界がちょっと動いたりしたら」というのは、僕の大好きな漫画のセリフだ。そういう瞬間を夢見て、何かを続けているのかもしれない。そんな僕も、きっといつかどこかで終わるのだ。


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