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説得というコストについて

*きのう、料理をしながらふと「どうして人を殺してはいけないの?」と子どもに聞かれたら、なんて答えるのだろう、と考えていた。いつもそんな物騒なことを考えながら料理してるわけじゃないですよ。なんか、ふと、思ったんですよね。どうして人を殺してはいけないのか、大人は暗黙の了解でわかっているけれど、まだ何も知らない子どもに純粋な気持ちで聞かれたら、ぼくはなんて答えるのだろう。


まず最初に出てきたのは「ダメだから」だ。すぐさま想像上の子どもが「どうしてダメなの?」と訊き返してくる。「誰かが悲しむから」とあまり考えずに返す。「悲しませたらいけないの?どうして?」と訊き返してきた。どうして誰かを悲しませたらいけないのか。そんなことをぐるぐると考えていると、ゆがいていたうどんが吹きこぼれそうになっていた。


人が人を説得したり、納得してもらいたいときに、論理を超えたものを出すと、コストは圧倒的に安くなる。「規則だから」「法律で決まっているから」「ダメだから」というのがまさにそうでしょう。でも、それを聞いている、対面している本人にとっては「なぜだめなのか?」が聞きたいわけですよね。それを面倒に思ったり、答えを持ち合わせていないからこそ、規則やルールを盾にしてしまう。こういうことは往々にあるし、ぼくもたびたびある。


しかし規則やルールを盾にして、考えることを放棄したりするのは、できるだけなくしたいなぁ、ぼくは。人に何かを伝えたり、やってほしいときに、「規則だから」って言われたら自分がイヤだから、そういうふうに伝えたくない。それで納得しないほど子どもじゃないが、それで全部納得できるほど大人でもない。そこで対話を重ねたり考えたりすることは時間も労力もかかるが、なるべくやっていきたいことだなぁ。たいていは、ここをカットしちゃうんだろうな。でも、カットしたらだめなような気がしている。


自分に事情があるように、相手にも事情があることは分かる。それを「規則やルール」で押し通すのじゃなくて、その理由や思いを伝えられたら、分かることができたら、深まるものがあるんじゃないかな。

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