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人の死について、最後の音

*先週、祖父が亡くなってからというもの、心にずっとそのことがついてまわっている。思えば、葬式ってのはすごいね。祖父が亡くなった3日後には執り行われて、基本的には身内だけのものだったけれど、それでも数十人の方が足を運んでくれた。この3日の間で、喪主である父や祖母、いろんな方がいろんな方に連絡をしていったのだろう。

祖父が亡くなってから葬式までのあいだ、まだどこか「亡くなった」という実感がなかった。祖父母の家に行けば、ふらっと二階から降りてきそうな気さえしていた。そもそも「亡くなる」ということばのイメージが曖昧だけれど「いなくなる」という意味では、本当の本当に実感したのは葬式が終わったあと、火葬場でのことだった。

火葬場はさほど小さくも大きくもなく、どこか機械的な匂いの漂う工場のような場所だった。五面体のそれぞれの側面に5つほど、エレベーターのような入り口が付けられている。説明するまでもなく、それは火葬される場所へ運ぶためのものなのだろう。祖父をその数ある入り口のひとつの前まで運び、何かの草に水をつけて3回撫でる、という儀式めいたものをした後、警備服を着た看守のような方が「それでは」と言って、棺をエレベーターの中に入れ、扉を閉め、緑色のボタンを押した。本当に一瞬のことだった。大人のぼくでさえ、その手続きめいた淡々とした作業に、寒々しさを感じてしまう。トラウマになってもおかしくない。人の最期が、ボタンひとつで燃えてなくなってしまうとは、想像もしていなかった。

あの瞬間、緑色のボタンを押して、「ガコン」という音が鳴った瞬間に、祖父が本当にいなくなったことを、その音を通して身体中が理解してしまう。その途端に身体がずしりと重くなった。今まで何の重みもなかった思い出に、重量が載った瞬間だった。

「人が死ぬ」とはどういうことか、自分なりに今まで考えてきたつもりだ。知り合いの死も、親しい人の死も体験したことはある。しかし、火葬場まで行ったのは今回が初めてで、あの「ガコン」という音を聞いた途端、今までぼくが考えてきた「死」に対する考えが壊されてしまった。本当の本当に人の「死」について考えようと思ったとき、あの「音」を聞いたことあるのとないのとでは、めっきり考え方が変わってくるように思った。直接身体に痛みを感じたわけではないのに、あの音は、今まで体験したことどんな痛みよりも、心に残る痛みだった。

ぼくが死んだとき、あの音を聞くのは、奥さんと子供だけでいいと思った。奥さんと子どもがそのときにいるかどうかは、わかんないけれど。


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