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言葉を選ばずにどうする、おれよ。

*誰も気にしていないかもしれないけれど、自分だけが変に気にしてしまうところってありますよね。能天気な人も、おおざっぱな人も、たぶんきっとあると思うんです。ちょっとした細かさみたいなところに、違和感をおぼえたり、どうしても気になってやり直してしまったりとかね。

僕の場合はそれが、「言葉のチョイス」なんだよなぁ。これはもう本当に「気にしい」なんです。人と話した日にはほぼ必ず、シャワーを浴びながらひとりで反省会をしています。「あれ、変に伝わったかもなぁ」とか「あれはこういう言い方のほうが角がなくてよかったかも」とかとか。それはもうクセのように、ぶつぶつと考えてしまう。

夜な夜なその日の会話を反芻しながら反省会をしていると、さいきんの自分の口癖に気付き、ぞっとしてしまった。それが「言葉を選ばずに言うとさ」だったのだ。

僕は「言葉を選ばずに」というのが、まーまー嫌いな人間だったはずだ。それは言いにくいことを言うような、もっと言えば「相手を傷つけるかもしれないけれど、ひとまずぶちまけるね」みたいなニュアンスを抱えている、どこか免罪符のようだと思っていたはずだ。はずなのに、僕は近頃、その言葉を多用してしまっていた。

誰かに何かを伝えるにあたって、これはもう絶対に、言葉が綺麗な方がいいと思っている。自分が心の中で何をどう思っても、どのように感じてもそれはかまわないが、表現や芸術ではなく、コミュニケーションである以上は、受け手の存在を忘れてはいけない、とゆめゆめ自分に言い聞かせていたはずだ。しかも、文章でめしを食う人間のはしくれである自分が、言葉を選ばないでどうするんだ、と。

会話の際に、そうなってしまうことはもちろんままあるし、失礼がないようにさえすれば、そうした「生焼け」の状態で渡す方がおもしろかったりもする。しかし何かを書いたりする場合に「言葉を選ばない」のは、書き手の怠慢だ。時間はたっぷりあるのだから。その言葉の影響や矛先を考えずに、選ばずに何かを伝えるようにはなりたくないなぁ。どう思ったかが感性なら、言葉を選ぶことにこそ、その人の知性や品性が出ると思っている。

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