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綺麗好きはこだわりじゃなくて場所である

*今年も夏がやってこようとしている。暑い時期が近づいてくると、毎年のように考えることがある。それは「半袖を着る」についてのことだ。

さて、あなたはどのようにして「半袖を着る」だろうか、今一度考えてみて欲しい。半袖を着るにしたって、さまざまな理由があるのだ。暑いなと感じて半袖を
着る人。すれ違った人が半袖を着てるのを見て、そろそろいいかと解禁する人。なぜか拒むように半袖を着ない人だっているだろう。そうだ、世の中は暑いから半袖を着る人と、誰かが着てるのを見て着る人と、着ない人がいるのだ。

なんてつまらないことを書いてみたが、正直、そのときどきで変わるじゃないですか。世の中はよく「〇〇する人」と「〇〇しない人」みたいに二極化したがるが、その論理に当てはめるとどちらかに辿り着かないといけない仕組みになっているだけで、本当のところはそうじゃないよね。「どっちでもいい」とか「ときどきによる」とかが、ほとんどの答えだと思う。

「綺麗好き」にしたって、僕は似たようなことが言えると思う。あくまで「目につきやすい」場所を綺麗にしたいから、綺麗好きだと言われるだけで、そんな人でも大雑把な部分ってあるよ。同棲した夫婦やカップルが、タオルの畳み方やらキッチンの使い方でけんかするのだって、あれはそれぞれの「こだわりたいところ」が違うだけで、「こだわる人」と「こだわらない人」がいるわけではない。

部屋に足の踏み場がないほど散らかってるらしい友人のデザイナーは、この前郵送するときに入れる梱包材の「クシャッ」具合が気に入らず、約1時間もかけて直していたそうだ。そういう、誰も気にしていないのに自分だけ気になっちゃうところみたいなのが、それぞれあるんだよなぁ。「ない」人と「ある」人ではなく、それぞれが別のところで「ある」だけで、それを「ない」ことにしてしまうと、ちょっとおかしくなっちゃうよね、という話でした。だって犬からしたら、僕たちは姿形が一緒の人間で、そんなこだわりなんて本当に些細で瑣末なことだよね。

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