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かわいそうだね、というひとこと。

*30歳半ばで急に目が見えなくなった、という人の記事を読んだ。ある日、朝起きると急に目が見えなくなっている。想像すらできないし、想像するだけでも恐ろしいことだ。寝て、起きたらもう見えない世界になっているのだから。この記事は、読んでいるこちらも覚悟が必要だなと思いながら、なんの準備もなく読み進めてしまっていたことに後悔していた。

その記事では、ある日急に目が見えなくなった日から今までのあゆみを、本人へのインタビューという形でまとめられていた。元々ファッションが大好きでアパレルで働いていた人が、目が見えなくなった今、「おしゃれ」に対してどう思っているのか、ふつうにおもしろかったんだよな。ただ、それ以上に、ぼくは記事の中で心がギュッとなる部分があった。それは目が見えなくなった当初、色んな人が代わる代わるお見舞いに来る中の一言だ。

「大丈夫だよ」「乗り越えられない試練は〜」みたいな言葉をさんざん投げつけられる中で、たいして仲良くもない知り合いが言った「かわいそうだね」という一言に、当事者の彼は涙が出たんだそうだ。自分がいま、いちばん言われたかった言葉なんだ、と。自分はどう考えてもかわいそうじゃないか、と。この話は、ぼくの心にとうぶん残っていた。

正論や励ましは、ときに当人からすれば邪魔になったりもする。言う側の口だけが潤う言葉、というかね。この方がその瞬間に言われたかったのは、「かわいそう」と憐んでもらうことだった。このことは、ただの事実でもあるが、他人からすればすごく取り扱いと飲み込むのが難しい話でもある。自分の友人がもしそうなったときに「かわいそうだね」と言えるだろうか。言う資格があるだろうか。

戦争で子供を亡くした母親が「神様を信じてきたのに、本当はいないんじゃないか!」って訴えてきたみたいな話があって、それに対して教会のお偉いさんは「あなたは神を信じていない」と答えたらしいのだけれど、西成でホームレス支援をしている牧師さんはそれを聞いてすぐに「一緒に神様に仕返しする方法を考えましょう」って言ったんだって。信仰も何もかも脱ぎ捨てて、一瞬でその人の立場になる。うろ覚えだけど、こんな話だった気がする。それとも通ずる何かがある。

かくいうぼくも、それに近いことがあったりなかったりした。「死にたい」と言っている友人に「死んでもいいよ」と言えたとき、相手も自分も肩が軽くなったことを、今でも覚えてるんだよなぁ。

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