見出し画像

「背景探し」にならないよう

*手伝っている会社のミーティングで、「何事にも背景がある。それを想像するのが大事」みたいな話になった。もちろんその通りだと思うし、一理も二理もある。今目の前にあるものや人は、いったいどこで生まれて、どんな道のりで、ここにいるのだろう?と思いを巡らせることは、たしかに大事なことだ。

ただね、なんとゆーかね。すべてに背景があることは確かなんだけれど、これ、一歩間違うと「背景探し」みたいになっちゃうと思うのよ。ぼくは、こういうのが一番ニガテだ。背景というのはその人の今を少しでもこちらが理解したり、慮ったりするためにあるのであって、こちらが「納得したいがため」に存在するものではない。

例えばさ、ちょっとひねくれた同僚がいたとするじゃない。それはもう、キレーにちょっとひねくれてるわけ。言うことひとつひとつにこう、揚げ足取ったりトゲがあるわけ。でね、そのときにこー聞くわけよ。「お前はなんかひねくれてるけど、家庭環境で変わったこととかなかったか?」みたいなね。

罪を犯した人を見て、なんでもかんでも背景を想像するってのもぼくはちょっとどうかと思う。その人を知る上で背景があるのであって、背景を勝手に用意して、その背景の上にその人を立たせて...というのは、あまりにも順序がちがいやしないだろうか。

手段と目的が入れ替わってる、と言ってしまえばそれまでなんだけど、人間はよくこういう事態に陥りがちだ。可哀想とか幸せそうとか、こっちが納得したいだけのレッテルを他人に貼って、理解したつもりになる。背景を考える、それは大事なことなんだけど、なんでもかんでも背景ってわけにはいかないよーな。今の世の中、考える力の次には「既読スルー力」みたいなものが、必要とされている気がする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?