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偲ぶということ

*去年から始めた風習として、誕生日には「遺影」を撮りに行くことにしている。できれば毎年、死ぬまでつづけていきたい風習だ。祝われるのが苦手なので誕生日はもちろんどう過ごしていいか分からなかったが、この「遺影撮影」をはじめてからだいぶラクになった。大切な人にサクッと遺影を撮ってもらう。その枚数が増えれば増えるほど、僕は生き続けたことになる。

近くにいい場所を見つけたから、と案内されるがままに行き、今年はそこで撮った。なんの変哲もない、ただの林の中だ。そこで数カットだけサクッと撮り、ふらふらと帰った。去年は車である場所まで行き、そこで撮った。内容までは言わないが、去年も今年もいい写真である。

30年近く生きると、葬式には何度か参加するようになる。そのたびに、自分ならどんな葬式にしてほしいかを考えてきた。ここぞとばかりに厳かにやるのも、それはそれでおもしろそうだし、フェスみたいにするのもちょっと楽しそうだ。僕の死を悲しんでもらえるのも嬉しいけれど、やっぱりどこか笑ってほしいと思う。酒でも飲みながら笑い話や死んだから言えることをたくさん話し合って、帰り道にちょっとだけさみしくなってくれたら申し分ない。生きている人には、僕のことなど引きずる暇もない明日がやってくるのだから。

こうしてそれっぽく書いているものの、書けば書くほどうそっぽい気もする。死ぬ前のことも、死んだ後のこともまだ分からない。いつ死ぬかなんてもちろん分からない。それでも、僕は明日死ぬなんて思ってない。現実的に死が近づけば、もっとリアルに解像度を持って考えることができるのだろうか。それでもやっぱり、笑ってほしい気はするなぁ。誰かを偲ぶことって、涙だけじゃないよね。


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