「いいことをしよう」としない。

*「いいことをする」というのは、素敵なことです。「いい」というのは、「良い」であり「好い」であり「善い」でもあります。「いいことをする」なんて文脈だと、とくに三番目の意味がおおきく使われそうです。しかし、細く長く考えていたんですよね。「いいことをする」という目的と大義で常にいるのは、自分はなんだか気持ちいいことのように思えない、それはなぜなのだろう、と。


「いいことをしよう」というのは、ひとつの想いなんです。「あいつの力になりたい」とか「自分の気持ちを優先しよう」とか、そういうものと同じ類のもの。あいつの力になりたい、という思いがあって、それがきっかけで動いた結果「いいこと」になることは、たくさんあります。分岐点に立たされたとき「どっちがいいことだろう?」という問いかけを自分にして、道を選ぶこともあります。でも最初から「いいことをしよう」という漠然としたもので進んでしまえば、それこそ「あいつの力になりたい」の「あいつ」の部分にモヤがかかっちゃうんですよね。だから、結果であり、判断基準でしかないです。すくなくとも「目的」ではない。


「徳を積む」ってのも、それと似たような感じだと思うんですよね。起きたことに対して「徳を積んだなぁ」と振り返って思うことはあっても、「徳を積もう」と思ってしたことは、ホントーに積めてるのか?徳、と。徳を積みたいと願う心に徳は含まれているか?といったよーな。やらない善よりやる偽善といった話じゃなくって、一旦「善悪」とかは置いときましょーよ、ということ。それよりも大事にしたいものが、大きすぎる善悪によって隠されてしまうことがあったりしますから。


昔、何かで読んだ小説に忘れられない一節があって、そのことを思い出した。孫悟空というおさるさんが、エラい坊主の三蔵法師にズバッと言うのだ。「あなたの眼は、慈悲という目ヤニで曇っておられるようだ!」この一言には、ほんと撃ち抜かれたよなぁ。

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