すべて受け入れられる恐怖。

*友人から誘われたある会に顔を出したが、そこの居心地が悪く、ぼくは途中で逃げ出すように姿を消してしまった。その会にいるほとんどすべての人が、自分のことをすべて受け入れますよ、なんでも肯定しますよ、みたいな姿勢でこられてしまったのだ。ぼくはそれが表面上のものだと気付いているし、表面上のものではなかったとしても、たった数分前に会っただけの他人のことを、まるまる100%で受け入れようとすることに、ぼくはものすごい恐怖を感じてしまった。友人には、ほんとうに悪いんだけれど。

「すべて受け入れられる」ことにぼくは、底知れぬ恐怖を感じてしまう。それは自己肯定感が低いからかもしれない。けれど、たしかに感じてしまうのだ。何でもかんでも肯定されると裏があるように思ってしまうし、裏がなかったとしても怖くなる。いつ、どのタイミングでこの人は愛想を尽かすのだろうというゲームになってしまいそうな気さえする。もし今後の人生でそんなことがあれば、ぼくは恐怖のあまりその場から逃げ出してしまうと思う。

すべて受け入れられることや、頭のてっぺんから爪先まで自分のことをまるごと好きになられることは、ぼくにとっては恐怖だ。語弊がありまくることをいえば、それは世界中のどこにいても、ぼくが孤独であることを許されていないようにも感じてしまう。若い頃こそ、自分のことをまるごと愛してくれる人を求めてしまっていた青さがあった気がするが、それなりに大人になってみて、そんなSFは存在しないことに気付いたし、存在したとしても半透明のホログラムで幻像だ。温かい言葉よりも、冷たいなじり合いの方が安心することがある。

かくいうぼくも、誰かのことをすべて受け入れたり、まるまる好きになってしまうようなことにはならないよう、気をつけたいと思っている。なんならそれは、相手に対する礼儀だとも思う。誰かをまるごと好きになることも、自分のすべてを受け入れられることもなく、知らない顔を知らないままに孤独に生きていたい。そして、できるだけ誰かの孤独を邪魔しないままに生きていたい。


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