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「思い出」というごほうび。

*たくさん生きると、思い出はそのぶんだけ増えていく。当たり前だが、十歳の思い出の数と、五十歳の思い出の数は、桁1つほどの差があるだろう。思い出せる数や、その瞬間は少ないので、いつだって思い出の数は変わらないように思えるが、思い出す場所や景色、瞬間、言葉や表情など、生きれば生きるほど、思い出の数は増えていくものだ。

ふとした瞬間に今まで忘れていたことが思い出されたり、思い出そうとして絞り出すように思い出したり、せきを切ったように溢れてきたりもする。そして、ちょっと事実とは異なっていたりもする。忘れないようにしている思い出もあれば、今の今まで忘れていたものが、ふっと頭に浮かぶものもある。まだ開かれていない引き出しや、これから思い出されないものもあるかもしれない。

「思い出」と「記憶」のちがいはなんだろうか。つい昨日のことを「思い出」とは呼ばない。しかし、今日起きたことを「今日の思い出」と言ったりもする。他にも、情報として覚えていることは、思い出とは言わない。勉強して覚えた英単語は記憶だが、机に向かって勉強していた姿は「思い出」だ。

そして「思い出」には、「懐かしい」という感情がつきものだ。日が暮れるまで遊んだ公園。あの頃好きだった人。母親が作ってくれたオムライスの味。いつか、どこかで見た電車からの景色。景色も、流れていた音楽も、想像する味も、喜怒哀楽ですらすべて「懐かしい」の一言に集約される。そして、その「懐かしい思い出」たちは、生きれば生きるほど増えていく。

そう思うと、「思い出」というのは、いま生きている人たちに与えられる「ごほうび」のようなものかもしれない。「懐かしい」という感情は、その瞬間ではなく、もっと後に気づく贅沢な感情だ。生きれば生きるほど、思い出と懐かしいは増えていく。生きている人たちにだけ与えられる、ごほうび。亡くなった人のことを思い出したり、懐かしんだりできるのも、生きている人の特権なのかもしれない。


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