あらゆる言葉や考えの背景に。

*ネットをひらけば、あらゆるところで「あなたにおすすめのもの」が出てきます。サブスクのサービスなんてのはまさに、その宝庫だね。アルゴリズムなんて難しそうな言葉のものを使って、「よりあなたの好みに近いもの」が統計や傾向によって算出されているのだろうけれど、ちょっとくどいなぁと思い始めてきた。便利ではあるが、そのシステム自体が好みかと言われるとそうではない。

「好きの押し付け」が苦手なのかと思ったけれど、べつにそうでもない。好きな人や共通の趣味を持つ人から「これ好きだったら、あれもいいと思うよ」とおすすめされたものは、たいていすすんで観てしまう。それが自分にとってアタリだろうがハズレだろうが、それはそれでひとつの出会いとしておもしろい。しかし、出会い方でいえば、機械が提供する機会とさほど変わらなくはある。

あ!そうだ、そこに「私」が見えないからかもしれない。誰かからのオススメは、それを紹介してくれた人の輪郭が、ちょっと見えるもんだ。この人はこういうのが好きなんだなとか、共感する!とかね。しかし、見えない誰かからの「それ」は、その背景が空っぽなのだ。

もちろん、統計や傾向というのは存在する。もちろん当たっていることもあるし、よかったなあと思うこともある。しかし、それは便利ではあるが万全ではないのだ。統計学も心理学も便利ではあるが、すべてが当てはまるとは限らない。むしろ当てはめられたと感じたときには、少し不快な気持ちにもなったりする。

あらゆる考えに「私」が、「その人」が組み込まれているかというのは、改めて考えてみれば大事なことだ。受け売りの言葉、借りてきたような台詞に重みがないのは、まさに「私」がいないからだと思う。言葉の重みだとか、何を言うかより誰が言うかなんてところの本質は、その言葉や考えのうしろにある「私」という背景のことだよなぁ。


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