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自分で掴んだものしか残らない

*20歳前後の頃、当時お世話になっていた、全身タトゥーまみれのラッパーの先輩に口酸っぱく言われていたのは「自分で掴んだものしか残らない」という言葉だった。

本を読んだり、映画を見たり、話を聞いたり、何でもいいけれどその中で金言のようなものや、心に響くような考え方を見つけることはできる。できるが、それはあくまで「見つかった」だけで、つまり眼で見えているのだから自分ではない、自分の一部ではないのだと。それを自分の一部かのように扱ってしまうと、そりゃあおかしなことになるよ、と。借りたものを「俺のもの!」と言い回って使ってるようなものなんだから。

そうじゃなく、いろんなものに触れて感じたことが、自分の中の経験や記憶と混ざり合って、自分の中で見つけたものだけ残るんだよ、と。教えてもらったり、本を読み込んだりしても、本当はなーんにも意味がないんだ、と。その自分の器の中のものと共鳴しなきゃなんないのに、そっちが空っぽなんじゃ、ねぇ。

20歳の頃、「お前の言葉や考えには重みがない」と本当に口酸っぱく言われていたものだった。それはまさに、僕が「自分で見つけたもの」ではなかったからで、誰かの言っていたことや、考えをそのまま自分のものになったかのように話していたからなんだよなぁ。そりゃあ、分かる人からすれば分かると思うよ。ぺらっぺらの重みのない言葉を吐いてるんだから。

頭で考えたことと、身体を動かしてやってきたことが、きちんと合わさったときにはじめて、それはひとつの「考え」や「哲学」にまで昇華されるんだろうなぁ。はじめてそこで「血肉」になるというかさ。本だけ読んでりゃ偉い人になれるし、筋トレだけしてたら強い人になれるってわけじゃないでしょう。「何を言うかより誰が言うか」の背景にある説得力ってやつは、目に見えないけれど確かにそーゆーものの積み重ねなんだろうなぁ。

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